くっついたり離れたりの日々

ぽっぽアドベント2021だよ!

ぽっぽアドベント24日目、クリスマス・イブ。12/24担当のふじおです。ぽっぽアドベントも三年目ですね。ありがたいことに毎年参加させていただいています。

adventar.org

 

 

一年目のテーマは「私が動かされたもの」で今も愛する漫画のキャラクター、花沢勇作さんについて怪文書をつづっている。

fujio0311.hatenablog.com

 

二年目は「変わった/変わらなかったこと」で魂だけで全力ダッシュしている人間がコロナ禍で自分の体を大事にすることを学んだ話。

fujio0311.hatenablog.com

 

今年の #ぽっぽアドベント2021 は「私の望みの歓びよ」がテーマなので、元ネタの教会カンタータ『心と口と行いと生活で』の終曲「主よ、人の望みの喜びよ」を久しぶりに聴いた。

この曲は私にとって特別な曲だ。小学二年生の時、地方のピアノコンクールで賞を取った時に記念品でもらった初めてのCD、その一曲目がピアノのアレンジバージョンの「主よ、人の望みの喜びよ」だった。これが異様に気に入ってしまった私は一曲をエンドレスリピートして聴いた。J.S.バッハの楽曲の美しさを主体的に理解しようとしたのもこの曲がきっかけだったと思う。もしかしたら長じて大学で声楽を専攻してバロックオペラばかり歌っていたのも、この頃からあるべきところに帰結する静謐さに惹かれていたからかもしれない。

ところで、「主よ、人の望みの喜びよ」って意味がいまいちわかりにくいタイトルだと思いませんか。特に「人の望み」ってところ。少なからず小学校二年生の私にはわからなかった。もともとは合唱パートのJesus bleibet meine Freude(イエスは変わらぬ我が喜び)がJesu, Joy of Man's Desiringと英訳されたところから来ているらしい。正確にいうと、原曲の詩の英訳ではなく、別の詩人が書いたものだとWikipediaに書いてある。

 

さて、はとちゃんが選び、テーマとしてもじった曲の歌詞を紹介する。

 

エスは私の喜びである。私の心の慰め、そして潤いである。イエスは全ての苦労を防いでくださる。イエスは我が命の力、私の目の喜び、太陽、魂の財産であり喜びである。それゆえ私の心と顔から私はイエスを放っておくことはできない。

 

なぜ長々とこれを紹介したかというと(主イエス・キリストとすべてのキリスト教徒にはたいへんに不敬なことであるが)、イエスのところをすべてねこに変えて読んでほしい。それが今の私の現状である。

 

というわけで今回のぽっぽアドベントではねこの話をします。

 

 

【この記事に登場する生き物】

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ふじお ねこバカになったオタク

 

 

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こむぎ 推定2歳未満のメス

 

私はねこばかになってしまった。Twitterでこの3か月見守ってくださっている方にはそれがありありと伝わっているはずだ。はとちゃんからテーマを聞いたときにねこのことしか書けないじゃんと思った。そのくらいねこに夢中だ。これでも少し落ち着いてきた方である。

これはねこの魅力が少しもわからなかった人による、わからないから飼おうとし、そして飼ったらめろめろになっている現在進行形の記録である。教訓もオチもない。最初から最後までを要約しても「ねこかわいいね」である。冗長な文章をお詫びしておきたい。

 

そうだ、ねこ飼おう!

事の発端はこうだ。今年の夏、職場にいつのまにか入り込んだ野良猫が捕獲され、捕物帳が繰り広げられたのがきっかけだ。先に言っておくとこむぎさんとは別のオス猫である。

ハクビシンやタヌキなどの可能性もあるため、注意喚起が回覧され、足跡が発見された水回りには念入りに消毒がほどこされた。ようやく監視カメラに侵入者の姿が映ってねこと判明し、捕獲作戦が始まったがこれがいっこうに捕まらない。

出ていったんだね、という結論になったものの、実際のところねこはかわいそうに一週間誰も来ない部屋に閉じ込められていた。ようやく発見された哀れなねこはそのへんに脱糞しまくり、集まってきた人間たちに爪と牙を向き、同僚の一人は襲われて流血して病院行き、ねこは御用となって近隣の保護団体に引き取られた。

念のためひどい目にあったもののねこは今も元気だ。七夕に捕獲されたので彼は職場で彦星と呼ばれている。私は捕り物帳にはいっさい関わっておらず、ねこの引き取り手を探していますというお知らせが職場でまわって来てやっと事件を知った始末である。

 

 

私は三月に中古マンションを買い、家具や内装を整えるのがもっぱらの関心ごとだったのだけれど、ねこと聞いてこれはご縁なのでは、と思った。次に飼うならぜったいに保護犬か保護猫と決めていてちょうど保護団体のHPをみさかいなくチェックしている時期だったからだ。

家を決めるときの絶対条件にペット可物件を譲れなかったくらいに生き物を飼うのが目標だったし長年のいぬ派の私だが、どうしてなのか部屋が整うにつれて「ここはいぬよりねこが似合う場所かもしれない」という思いつきが頭から離れなかった。犬が走り回るにはいくら3LDKと言ってもいささかせまい気がしたのと、毎日の散歩に連れていけるほど時間的にも心理的にもゆとりがない…というのもあるが、私の頭にはねこを飼う未知の世界への希望が広がっていた。ねこを飼うどころか触れた経験もろくにないのにも関わらず。

ねこの生態も性質もあるあるも1ミリもわからない。正直に言うとこれまでの人生であまりかわいいと思ったことすらなかった。いや、生き物はなんでもかわいいのだがねこの写真をみて「いいな~」と身悶えるような感覚はなかった。

これを言うと多くの人に「それでよくねこを飼いましたね」と呆れられるのだけれど、私はそういう人間で何か閃いてしまうと実行に移さずにいられない。それであまり後悔らしい後悔をしたことがないのだから実に得な性分だ。私は自分の2つのモットー「迷ったら愉快な方を選択せよ」と「思い立ったが吉日」を信じていて大体の人生の選択はこれに従っているので、今回もその流れに近い。

 

とはいえ、生き物を飼うには終生飼育の責任もある。経済的な見通しも必要だし、いずれくる介護やお別れのことも考えなければならない。動物を飼う人生の日々にはめでたい吉日や愉快なことばかりではない。

まずは人間の心の安寧としてかわいがるよりも日々の世話だ。そうなるとねこをどうやって選ぶのかがいちばんの問題である。保護猫だったらなんでもいいとすら思ったが、それはそれでねこに対して不誠実であると気づいた。どうしたって個体差や相性はあるし、ねこ飼い初心者に野良出身・暴れん坊の彦星は荷が重いのではないか…。

 

彦星には彼をダシにしたようで申し訳ないのだが、保護猫団体に他のねこも見せてくださいとお願いして出会ったのがこむぎさんである。実は最初に彦星に会いに行く予定だったのだが、預かり主である保護猫団体の責任者さんとちょっとしたコミュニケーショントラブルがあり、胃を痛める出来事もあった。しかしそれで縁を切っていたらこむぎさんには会えなかっただろうから、耐えて良かったのだと思う。なお、暴れん坊彦星はまだ引き取られるのを保護猫団体で待っている。もう暴れん坊ではなくなっているかもしれない。気になった方はご連絡ください。お待ちしています。

ずらりと並ぶ写真の中でこむぎさんは香箱すわりのちいさいねことして紹介されていた。おとなしく、穏やかそうに見えたし膝にのって甘えます、なんて書いてあった。私はドキドキしながらこむぎさんを「指名」した。

 

こむぎさんとの出会い

こむぎさんは都内某所の昔からある古い団地の一室、多頭飼育崩壊現場で保護されたメスのねこである。空気の入れ換えゼロのせまい一室でカビだらけ埃だらけの空間に複数のねこと暮らしていたという。身体も大人なのにかなり小さい。私には平均的なねこのサイズがいまいちわからないのだけれど、小柄な方だ。

実は譲渡会場でも私はこむぎさんに触れてもいないし、どんなねこなのかよくわからないままトライアルをお願いしたのが実情である。この団体はシェルターを持たないので不特定多数のねこと自由に交流して、君に決~めた!ということができないのである。もしもそういうことになっていたら、ケージの中でひたすら縮こまって小さく鳴いているだけでおやつも抱っこも拒否していたこむぎさんを選ぶことはなかったかもしれない。

「ねこを飼ったことがないしよく知らないのです」と挙動不審になってしつこく質問するわりには言い訳がましい逃げ腰の態度を崩さず、そのくせ図々しくねこを選びに来た私に対して保護猫団体のスタッフさんたちは優しかった。

おごそかに「このねこはこの通りおとなしいので小さい子どもや先住猫がいない静かな環境がよかろう、つまりおまえの家のような条件がぴったりである」という。嘘か真かは知らないが、なるほどそんなもんかなと思った。ねこにとっていちばん良さそうな環境を選ぶことが彼らの仕事なのだ。ともかくもその人たちがおまえのところがよかろうというのだから信じてみようと思った。

 

一度では決めきれず、こむぎさんには二回会いに行った。一回目にはもう一匹オスの子猫がいて、この子はとてもかわいらしく元気に部屋を駆け回り、私の膝に乗り上げておやつもガツガツ食べて抱っこもできる非常に愛想の良いねこだったが、どうも心が通じ合う感じがなかった。

しかし、私はこのときはじめて、ねこがすべらかで柔らかく魅力的な生き物かを思い知って雷に打たれたような気持になった。

ねこ、あたまちっさい!! すべすべ!!! 柔らか!!!! 軽い!!!!!!!!!! かわいい!!!!!!!!!!

※実家の愛犬パグ・たろうさんは7.5kgあります。パグもかわいい。パグ愛。

 

二回目はもっとたくさんねこがいた。相変わらずこむぎさんは譲渡会会場にはなじめず、今度はうんともすんとも言わず不本意そうに座っていた。前述のトラブルで私はものすごく構えてしまったのだが、責任者の女性は会ってみればなんてことのない気の良い豪快な人だった。ただ、彼女は人よりねこの方が好きなのだ。「ち●ーるで仲良くなるのよ」と言って食べさせようとしたが、こむぎさんは迷惑そうに顔を背けて嫌がっていた。天下のち●ーるに食いつかないねこなんているのか、と私は愕然とした。とはいえこれには理由があって、こむぎさんはパウチや液状おやつは経済的に困窮していた人間の飼い主が食べてしまう環境にいて、ドライフードしか食べつけていなかったのである。預かり主さんの家でもかたくなに液状のものは食べないらしかった。

これは手ごわいぞ、と思い私は迷い始めた。

他の預かり主さんにまた別のしょうが色のねこをぐいぐいとおすすめされた。ほんとにいい子なのよと言われて抱っこを薦められたが、ジンジャーキャットは部屋のすみに逃げてしまった。責任者さんとスタッフさんたちはチラチラと私を見ていた。まだふんぎりがつかないのか、と思われているに違いなかった。

 

私は途方に暮れてしまった。今まで知らなかった世界だ。たくさんの保護猫たち。これからもたくさんやってくるだろう。生まれたてのかわいい子猫ばかりではない。保護犬・保護猫のルッキズム・エイジズムの記事も頭に過ぎる。罪悪感がわく。

休日の貴重な時間を割いて捕獲し、通院させ、預かり、ゆるぎない愛を注いでいる熱心な活動家の方たちにはほんとうに頭が下がる。彼らはねこがねこであることを全身全霊で受け入れている。だからこそ、こんな覚悟のない人間のしょうもない不安など理解しない。理解してほしいなど、甘っちょろいのだ。ねこにだって傍迷惑な話である。飼われる側からすればねこ未経験なんて関係ない。命を握られるのだからたまったものではない。さて、ここからどうやって選ぶというのか。ねこの幸せってなんなんだろうか。そもそもこんなに不安で私はねこを飼えるのか。飼っていいのか。

 

一時間経過してもこむぎさんは小さくなって壁を向いたままだった。時間切れで私は決断をふんわりと迫られていた。二回目でやっぱりちょっと…と言ったら私は二度とねこを飼えないかもしれない。

どうしてもこむぎさんが気になった。きっとこむぎさんはここでは誰に対してもこんな感じなのだろう。私はどのねこだってトライアルでうちに来たら絶対に手放せなくなる。だからいつもの直感を信じようと考えた。愛想の良い元気な子猫がもらわれていくケースが多いと聞いたから、私が引き取るべきなのではないか。それに、よくわからないねこの方が変化していくのが面白いのでは?

見切り発車なのかもしれないが、思い切って私はトライアルを希望することにした。最後までこむぎさんは壁を向いてこちらを見ようともしなかった。

 

 

未知の生き物との生活

一週間で慌ただしくキャリーやらトイレやらを買いそろえた。これでトライアルが失敗したらこの新品のケージはどうすればいいんだろうと思いながら汗だくで組み立てて準備をした。その週はほとんどねこのことしか考えられなかったし、友達に相談するのもねこのことばかり。

こむぎさんは2021年10月2日(土)のよく晴れた午後3時、キャリーケースにおしっこを漏らして完全におびえきった状態で我が家にやってきた。平べったくなっていたのでねこというよりは黒と白のヒラメだ。

預かり主さんは私の部屋を褒めてくれ、環境確認の写真を数枚撮ると(お茶でも煎れるからもっといてほしい、ねこ飼いの極意を聞かせて…)と目で訴えている私には目もくれずにさっと帰られてしまった。あとには毛の生えたヒラメのような生き物と興奮と緊張で手汗をかいている私が残された。

ねこは与えられたケージにひっこみ、ますます平べったくなって隠れてしまった。もっと人懐こくて愛想のいいタイプのねこにした方がよかったのだろうか…と一抹の不安も抱えながら、私はねことの仮生活をスタートさせた。

 

 

 

ねこはしらない環境、しらない人間にとにかくおびえていた。カビだらけの空間にいたせいか風邪をひいているのか、しきりにくしゃみをして鼻水を所かまわず飛び散らしたせいで白い壁には青っ洟がこびりついた。淡いピンクの鼻には固まった鼻くそとカビのようなものがついていた。目は常に吊り上がり、譲渡会場で聞いたかわいらしい鳴き声は一声も発しなかった。物音も立てずに怒りと不信を伝えてくる。攻撃性はないが思ったよりずっと気が強い。あの場で大人しくしていたのは何だったのか。演技か。

こむぎさんは初日の夜中に暴れ、寝床用に置いていた段ボールをめちゃくちゃに噛みちぎり、水浸しにし、ケージの下に投げ落として自らバリケードを築いていた。レ・ミゼラブルのアンジョルラスもかくやである。

一方、安心したことにはビビりのわりに好奇心旺盛かつ元気で根性のあるタイプであった。来て半日で食事も排泄もし、3日目には私の目を盗んでケージから出て、家の中を探検していた。

 

 

一週間後、ねこは私が同居している事実にやっと慣れた。ほとんど諦めた形にも近いのかもしれない。とはいえ、私と2mのソーシャルディスタンスを保ち続け、餌をあげるときは毎回威嚇された。目が合うと隠れてしまった。ほとんど私は噛みちぎられた段ボールを見つめ、段ボールに向かって話しかけていた。

 

 

威嚇されるたびに私はしょんもりした。どうしたらねこに私は敵ではないとわかってもらえるんだろうか。ねこ飼い経験者には「根気と時間が必要じゃ。ただただそばにいて淡々と世話をしなはれ」とアドバイスをいただいていたので粛々と世話をした。でもさ、相性ってのがあるじゃないの。石油王が美少年を幽閉して愛を注ぎいつしか結ばれる古のBL漫画じゃないんだから、ねこが私のこと好きじゃなかったらどうするのよ…と柄にもなくしょげそうになった。

 

最初は監視人と生活している気持ちであった。私はねこを見張っているが、ねこもまた私をじっと見張っている。誰が見張りを見張るのか?*1

一週間は短い。この時点でトライアルは容赦なく終わるのである。お互いがお互いの存在に慣れたくらいの感覚なのに、もう結論を出さないといけない。私は覚悟を決めた。これ以上懐かなくても、ねこの世話は生活のハリである。引き取ろうじゃないか。社会貢献だ。あと懐かなくても(できれば死ぬほど懐いてほしいが)ねこはかわいいじゃないか。

預かり主さんには新しい名前をつけるように言われたが、私はどうしてもかわいらしい名前をつけるのが苦手だ。名前をつける責任感がこわいしセンスもない。実家のいぬもたろうさんという名前である。幸いこむぎという名前は嫌いではない。なんでこむぎなのかはわからないけれども無難だし、ねこだって呼び慣れられている名前の方がいいだろう。

そんなわけでこむぎさんは私の家のねこになった。

 

 

私のデスクがこむぎさんの初期の居場所だ。書斎をねこのケージ置き場にしていたので、完全に占拠されている。

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距離感つねにこれ

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ウォッチメン


私はねこの一挙一動に振り回されて喜んだり驚いたり泣いたりしていた。ちなみにこのあたりの写真はすべて隠し撮りだ。必死にねこを見ないようにしてカメラを傾け、こそこそと撮影してニヤニヤしていたのだから、私はねこにとってとんだ盗撮魔である。

ありがたいことにやってきて二週間近く経つ頃少しずつ変化は現れて、ねこは頑なに拒否していたち●ーるやカリカリのおやつも手ずから食べるようになった。他のねこがいない静かな環境にいて、はじめて安心して食べられるようになったのかもしれない。

初めてこむぎさんが私の掌にのせたカリカリを恐る恐る食べたときは文字通り号泣した。ねこの濡れた鼻先と温かい息が触れたのが嬉しくて、不気味なことに私は30分近く泣き続けた。

よその家の動物ではない、私のねこだ。

私は私のねこが私に触れてくれたことに感激した。こんなに泣いたのは久しぶりだった。おやつを数秒で平らげたねこはさっと離れていき、いい年をした人間がぐずぐずに泣いている横で知らん顔をしてモリモリとウンコをした。

 

 

こんな調子でごはんとトイレの世話をし、猫じゃらしで遊び、威嚇され、病院チャレンジに失敗して引っかかれて流血する日々が続いたけれど、ついに10月末に変化が訪れた。やっと撫でられるようになったのである、指一本で。

ねこは安全地帯のひとつであるソファの下から頑なに出るのを拒んだが、ゴロゴロいうようにすらなった。ソファ下の空間の奥に手を伸ばし、首と腰を痛めながら撫で続けた甲斐があって、ねこは急激に懐き始めた。

 

 

 

11月は急速に距離が縮まった。目が合うようになり、すぐ近くでくつろぐようになった。威嚇もほとんどされなくなった。

そして12月初旬についに膝に乗り上げて、一緒にくつろいだり眠るようになった。

 

 

ねこ、BIG LOVE ~そうして私はねこバカになった~

12月に入って、ねこはとてもよくしゃべる。ねこが鳴くのは人間とコミュニケーションを取ろうとするときくらいらしい。私もねことよくしゃべるようになった。

平日は一日10時間くらいお留守番して、よく我慢してくれるなあと思うと申し訳ない気持ちでいっぱいだ。今まで帰ってからお絵かきをしたり映画を観たりする時間は減った。その代わりねことできるだけ遊んだり一緒にくっついて座っているようにしている。

 

もちろんねこが何を考えているか依然としてよくわからない。移り気で今ベタベタに甘えたかと思うとなにが気に食わないのかパンチをお見舞いしてくるし、じゃれたいのか爪で引っかかれたりもする。叱るとすっと離れていくけどまたさみしがって鳴いたり、飽きずに近寄ってきたりする。くっついたり離れたりの繰り返しだ。

そのたびに叱ったり話して聞かせるけど悲しいかないまいちよく伝わらない。こむぎさんだって「どうしてやりたいことが伝わらないんだろう。なんで叱られるんだろう」と思っているのかもしれない。我々は持っている言語が違うのだ。分かり合えないことを分かり合わないといけない。

 

ねこは最近ちょっと落ち着いて一匹になりたいときはケージの上によじのぼって、そこで心安らかに過ごすようになった。そうやって自主的に距離を取って過ごす様子をみるとやはりいぬとは違うなと思う。私はまだ修行が足りないので、ねこが何をしても受け流せるわけではないし噛まれたらそれなりに傷つくし腹をたてるのだけど、ねこを愛する気持ちはいや増すばかりである。動物を飼うのってすごいことだ。無条件に愛を注げることが許される対象がいるのはなんと幸せなことか。だからこそねこに愛を注ぐことに自覚的でもありたいし、ねこの心地よい瞬間をできるだけ作りたい。

 

恥ずかしいことにこうなるまで、私はねこを愛せるのかとても不安だった。動物は基本的に好きだし、たとえ懐いてくれなくても世話もするし最期まで面倒をみるつもりなのは当然と思いながら、自分を信用できないのだ。

こむぎさんはただ泰然とねこであるから、私が不安を抱えながら一緒にいるのに向き合ってくれる。私も変わるし、ねこも日々少しずつ変わっている。長い時間をかけてねこの存在が私の血肉となり、私の一部になるときに初めて私はねこを飼うことの歓びがわかるのかもしれない。

10月2日にねこが来て、たったの10日くらいで私はねこのいない生活が考えられなくなってしまった。こんなに濃密な時間をもらって、あまりの充足感に怖くなるくらいだ。年老いたねこを見送った人のツイートを読みながら、すぐ横で呑気に寝ているこむぎさんを見てめそめそ泣いたりもしている。

人間は勝手に想像して泣いたり怒ったり笑ったり、ねこのことをわかったふりをしていい気なものだ。それに対してねこには過去も未来もなく、その瞬間しかないと聞く。瞬間瞬間の感覚が記憶としてねこの小さい身体の中に引き出しのように詰まっているんだろう。

 

12月23日、これをタイプしている私は一日休みを取り、ねこと過ごしている。ねこはびっくりするくらい甘えん坊になった。甘えん坊すぎてこわいくらいだ。すぐ膝に乗りたがり、私の腕の中で赤ちゃんのようにサイレントニャーを繰り出してはナデナデを要求し、すやすやと眠る。おでこにキスされるのも好きだ。

昨晩は一緒に抱き合って眠り、朝5時にかわいい鳴き声で起こされごはんを要求され、二度寝して起きたあとは鳴きまくるねこをたっぷり30分は撫でた。一緒におもちゃで遊んで、掃除をして機嫌を損ねる様子や昼寝をする様子を見守った。夕食後は膝の上にねこをのせて読書し、台所で杏仁豆腐を作る様子を見張られた。

今、やけに静かだなと思って探したら私のベッドでねこは休んでいた。これは初めてのことで、毎日こうやってねこの行動は変わっていく。

できるだけ長くねこと一緒にいられるように、くっついたり離れたりしながら一つ一つの変化を見逃さないように暮らしていきたい。

 

 

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ねこ BIG LOVE

 

ねこ、愛してるよ!

 

 

 

明日はクリスマスです。アドベント最後の日、主催のはとちゃんです。

はとちゃん暑苦しくねこ愛を語る良い機会をありがとう。楽しみにしています。

皆さん良き日をお過ごしください。

 



*1:Who watches the watchmen?はアメコミ映画ウォッチメンで知ったが、もとはローマの詩人ユウェナリスの風刺作品に見られるラテン語のフレーズらしい。