ジミニー・クリケットの声を聞く

日記。

某映画の批評をしていたアカウントが消えてしまった。曰く「twitterはもうオタクが楽しく会話できる場所ではなくなった」とのことで、それはそうなっているのかもしれないなあと厭世的な気持ちになってしまった。

しかしそういったネット上でのトラブルやいわゆる「叩き行為」に遭遇するたびに暇な人もいるものだと思うものの、彼らは暇だから嫌がらせをしたり粘着するわけではない。遊び半分、野次馬根性、物見遊山的に参加できて自分はその他大勢だから責任はないし、気軽で楽しい遊びだからやるのだ。まじめに相手をするにはコストが高い。残念だけどその気持ちはとてもよくわかる。

楽しんでいる人に道徳的にどうのと説いてもしょうがない部分はある。反省するのは法的手段を取られて特定されたり賠償金の支払いを求められた場合くらいで、それだってポーズに過ぎないだろうし本当に本当に反省したのか確認する方法などない。錘をつけて水に沈めて浮いてきた者だけが無罪とするのと一緒なくらい馬鹿げている。だから賠償金だの法的処罰てのがある。

でも大体そうなったときには取り返しがつかなかったり、何かが損なわれてしまっている(もちろんそこからやり直すことはできる)。加害性を無自覚に持つ人間は悲しいくらいごまんといるし、自分もその一人だ。どうコントロールするのかが時に矜持であったり、時に倫理観であったり、あるいはあまり褒められたものではないが単純に戦略的保身であったりする。

 

私はめちゃくちゃにむかついて架空の敵の泣かせて四肢を引きちぎって苦悶の声をあげさせて許しを請わせたい気持ちになったときは、胸にジミニー・クリケットを一匹飼っていることを思い出すようにしている。ジミニーはけして大きい声では鳴かない。だから聞こえるように自分の心の状態をよくふだんから観察しておくことが必要だ。それからジミニーに良いものを食べさせて太らせてちょっとでかめの声で鳴けるようにしておくのも大事かもしれない。警笛レベルで鳴いてくれるようになる。ときどき誤作動を起こすかもしれないが、鼻が長くなって花が咲いたりそれで人を刺したり、あるいはほんとうに敵と思った人間の四肢をひきちぎるよりましだ。

ジミニー・クリケットで思い出したが、私は太宰治の小説だと『きりぎりす』がいちばん好きでこれで学生時代に感想文を書いたことがある。

背骨の小さい声を聞き漏らさないように生きたいとそれらしくかっこつけて書いてから20年近く経ったけれど、ほんとうに、なかなか難しい。

 

いい話です、読んでね。

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