梅芸ミュージカルINTO THE WOODS感想

梅芸のINTO THE WOODSにいってきた。昨年11月末のソンドハイム訃報を受けて涙した身としては、貴重な日本語上演を観に行けるのが楽しみだった。思い返すとソンドハイム作品を観るのは2004年の宮本亜門演出「太平洋序曲」ぶりというブランクで、そんなレベルの人間の感想だと思ってください。ぜんぜんほめていません。

物語と舞台演出などについてのネタバレです。時間が経つにつれてなんだかイライラしてきたし頭にきている。役者のインタビューを読んでしまったせいかもしれない。役者個人への文句もあるけど、プロダクション全体に対しての失望がつよい。

 

 

 

↓ここからネタバレ

 

 

 

INTO THE WOODSは童話のキャラクターたちが未知の世界、すなわち森で欲望にしたがって行動することによっていったんは目的を遂げるものの、混乱し、戸惑い、命を落とし始めるビターな大人のミュージカルだ。巨人の妻によって自分たちの世界が破壊されはじめると利己主義になったキャラクターたちは物語の枠組みを超えてナレーターを殺すがカオスは止められない。更地になった森で生き残ったキャラクターたちは自らを振り返って、心を入れ替えて物語を再構築していく。メタな視点が面白い秀逸な作品だ。

だけれども、今回は演出も歌唱力もかなりバランスが悪く、それをスターが支えてギリギリ成り立っているというあやうい舞台だった。

 

冒頭でシンデレラ・ジャック・パン屋がふらふらと長椅子に横たわり、ナレーターが登場し、物語が始まる。この幕前のワンシーンは二幕のはじめにも繰り返され、物語の核になるのは最後まで舞台にとどまるこの3人だと演出したいのだろうけれど、それでいえばラストには赤ずきんが加わるので一貫性がない。であればナレーターと共に物語の外を示す幕の外に登場させる必要があったろうか。

舞台上には大小三つの枠がシンデレラの家/城、パン屋の家、ジャックの家に見立てられる。Swingとパフォーマーが牛のミルキーホワイトやハープになり、魔女やジャックの場面では彼らの体を支える。先日改めて観た「夜中に犬に起こった奇妙な事件」での宇宙飛行の場面のような演出を思い出した。

 

こうしてナレーターの「昔々あるところに…」から舞台が始まるのだが、シンデレラのほとんど叫ぶような「ねがう!」(I Wish!)でおやと思い、開始3分で役者に歌唱力に問題ありの前評判が確信に変わった。シンデレラの古川琴音、パン屋夫婦を演じた渡辺大知・瀧内公美はミュージカルとしての歌唱ができていない。ここから歌唱についてのだめなところをつらつら挙げる。

 

シンデレラとパン屋夫婦は出番も多く、作品の土台の役割を果たす。ここに思慮の浅いトラブルメイカーのジャックとトリッキーで傍若無人赤ずきん、娘のラプンツェルに依存している魔女が加わり、「ラプンツェル」「シンデレラ」「ジャックと豆の木」「赤ずきん」の四つの物語が交錯する。

しかしこの中心キャラクターのうち、シンデレラとパン屋夫婦の3人がそれぞれ歌唱能力に問題を抱えている。声質は悪くないのだがここひっかかりそうだなと予想する箇所で見事に全部音程を外すシンデレラ、声の伸びがなくチェンジで音がひっこみ歌い方が雑なパン屋の妻、発声が甘く活舌が悪いために言葉が埋もれて聞き取れないパン屋。

3人とも地声のチェンジの部分で突然声が引っ込むので高いキーや難しいパッセージは聞こえなくなってしまうし、フレーズ終わりの処理が雑でハーモニーがない。これが演劇作品だったらまた少し違う批評になるのだけど、これってお金を取って上演しているミュージカルだよね?と聞きたくなるクオリティだったのだ。

ジャックを演じた福士誠治はアクロバットな動きの中で比較的安定した歌唱を見せたので落ち着いて見られたが、役柄が持つ無邪気さとは乖離を感じる奇妙なゆとりが見られる芝居だった。それでも「スリル・ミー」などに出演していた経験があるだけあって、他3人よりはよかった。

パン屋夫婦を引っ掻き回すトリックスター赤ずきん役の羽野晶紀は子どもっぽいガチャガチャした金切り声でそのまま歌いきるという力業に出ていた。音楽的に極端に破綻はしていないのが彼女の底力を思わせるものの、出ている間はこの力んだ声をずっと聞かないといけないので個人的な好みとしては正直厳しかった。なので、この5人が中心となって歌うとトーンがそれぞれ違うのでまとまりがないのだ。

2幕になるとだいぶ聞き苦しさは軽減されたけれど、物語の前提となる説明的な音楽が多い1幕で辟易してしまって幕間に一瞬帰ってしまおうかと思ったくらいだ。INTO THE WOODSを生で観たことがないものだから記念として最後までいたけれど…。

ことあるごとに悪口を言ってしまう全然成功していないロブ・マーシャル監督のディズニー映画版「イントゥ・ザ・ウッズ」でもキャスティングがいまいちではと思ったが、歌は全然歌えていたからこの点ではましだった…と遠い目になってしまった。

 

 

冒頭のテーマ曲INTO THE WOODSではほかに継母や異母姉妹たちを演じるベテラン経験者たちが加わっていくのだが、新たな登場人物が登場するたびに役者のレベルを判断し、耳を調整して推し量る時間を設けないといけない。

しかし多少上手な人が出てきたところで、先のシンデレラ・パン屋夫妻・ジャック・赤ずきんがミュージカルの核なのだ。パン屋夫婦のデュエットは職場で聞かされる同僚のいまいちなカラオケを想起させる。シンデレラは正しい音を歌えていたフレーズはいくつあったろうか。ちょっと音を外したね、という話ではない。下手な役者たちに共通するのは言葉の単語の頭や終わりの処理が雑なところで、そうするとただ歌詞をだらだら歌っているように聞こえるために意味が瞬時に理解できない。これはベテランの望海風斗や王子二人の歌い方と比較すると天地の差だった。

とにかくソンドハイムの書くメロディーの効果がまったく生かせていないし、あまりにも歌唱レベルがでこぼこで落ち着いて聴けない。おまけに言葉がただでさえ聞き取りづらくなりがちな歌詞の、さらに日本語訳である。日本語訳もうまくいっているのかわからない。はっきりいって一つも歌詞を覚えられなかった。観客が物語に没頭することができないのは問題ではないのか。

 

 

めちゃくちゃにけなしてしまったけれど、映画などでの演技はもちろん実績がある方々なので私も映画俳優としては彼らを評価したいし出演作も好きなものがあるが、ミュージカルにおいては歌と演技はきっぱりと分けられるものではないと思う。だから「芝居としては面白かった」と思う部分が自分の中にもあるけれど、「芝居に歌も入るのがミュージカルでは」と考え直している。演出からのラブコールでキャストが決まった、と見かけたが、真偽のほどはおいてもキャスティングミスだと感じた。

もともと訓練を積んでいる人でも楽譜通りにメロディーやリズムを正確に歌うのがかなり困難なソンドハイムとの楽曲に、そこそこの歌唱力の役者を配役するのは無茶だと思う。

 

 魔女役の望海風斗はさすがの実力で出てきた瞬間に客席の困惑した雰囲気と集中力がぎゅっとまとまり、空気がしまるのを感じた。コミカルな演技もお手の物でパフォーマーたちに支えられてさかさまになって歌ったり怒鳴ったりもなんなくこなすし、しっとりと聞かせるナンバーも聞きごたえがある。魔女のパワーで舞台全体が底上げされている。

CHILDREN WILL LISTENは朗々として美しかった。逆にこの人はほかの役者のことをどう感じながら参加しているのだろうか、やりづらくないのかと穿った疑問が浮かんでしまった。観客も望海さんのファンが多いのか、温かい雰囲気でカーテンコールを迎えたのだが、ほんとにそれでいいの?と個人的には疑問だ。(というかブーイングが起きないのがすごいなとも思った)。

王子役の渡辺大輔、廣瀬友祐(狼と二役)の二人も卓越した歌唱力とコミカルな演技で振り切っていてよかった。が、二人の持ち歌のAGONYはアゴニー!とそのまま訳するでもなく歌われる。冒頭のINTO THE WOODSでfestivalがそのままフェスティバルと歌われていたのはともかく、ぱっときいていまいち意味がわからない単語をそのまま使うのはどうかと思った。さらにAGONY,MISERY,WOEの掛け合いがあほっぽくて好きだったのだが、この部分も削られてしまっている。これはなぜそうしたのか、音楽監督に問いたい。こういうところが雑な処理だなと思う。歌全体を通してもこの翻訳歌詞が今後永続的に使用できるのだろうか。

 

 

他にもたくさん疑問が頭に浮かんでしまう。

パフォーマーたちは後半であまり存在感を見せていないのではないか。

王子たちのウイッグやいかにもな衣装はキャラクターが王子の役割を演じていることを表すと解釈したが、普段着の延長のような他のキャラクターたちとバランスが取れているのか、それは演技で表現できるものではないか。

あるいはオペラ歌手が演じるラプンツェルはとびぬけて声が美しいが、魔女と対峙し、他のキャラクターと調和できる演技のトーンであったか。

シンデレラの葛藤の場面で2人に分裂して登場するのは意図がわかりにくくないか。

こまめにはさまれる茶々のようなセリフはもともとの舞台には存在しないのではないか。

シンデレラと対話する小鳥の演出はサイモン・マクバーニー演出の「魔笛」の模倣か。

 

 

熊林弘高さんはこれがミュージカル初演出ということだったが、作品全体を俯瞰してほしい。舞台上での役者の立ち位置も様々な場面の演出も洗練されておらず、まとまりがない。あまりそういうバランスは考えていないのだろうな、と思ってしまった。

こういうことをずっと考えながら聴く羽目になったためかなりストレスだった。ソンドハイムの楽曲はたしかに難解だけど、「この作品は歌が難しいから大変です、歌詞や演技をみんな向けにコミカルに崩してわかりやすく面白くするからよござんすね?」とプロダクションから言われている気持ちにすらなっている。

出演者の番宣的なインタビューも読んだけれど「人前で歌う経験はあまりありません」と言い切っている内容で、じゃあ何故よりによってこれに出たのだ…と苦々しい気持ちになった。

今のところ、舞台に関する記事を探しても宣伝インタビューや話題を取り上げる内容のみ、あとは観客からの感想ブログくらいだ。そのうち有識者から舞台批評が出るのではないかと思うけれど、これだけけなしておきながら読むのが恐ろしい。

 

このプロダクション全体を通じていえるのだけどメロディーの力、言葉の力をもっと信じてもいいのではと思う。最低限の歌唱もできていない完成形を出してくるのは観客に失礼ではないのか。

ベテランの使いまわしはつまらない。若手もどんどん起用してほしいし失敗は成功の元だし、どんなに訓練を積んでも本番で失敗することは多々ある。だが、最低限の歌唱力を持つ役者をキャスティングすることはできたのではないか。せっかくのソンドハイム作品の日本語上演がこういう形になってしまって悲しいし残念だ。

改めて終演後にパンフレットを読んだ。演出家が語るソンドハイム作品への敬愛の念、役者たちが雄弁に語っている物語がもつテーマ性や問題提起やメッセージがあのパフォーマンスで観客に伝わっていたかと考えるとはなはだ疑問である。