チロンヌㇷ°カムイ イオマンテ感想

 

キタキツネをチロンヌ(プ)というのは子供のころに知った気がする。しかしイオマンテはそれこそ金カムで読んだとおり、神の国へ送る儀式なので正直観るのに恐れをなしていた。なんたってクマじゃなくてキタキツネなのだから、サイズ感も猫や犬に近い。またこのキタキツネのツネ吉が愛くるしいのだから、この映画が86年に記録された映像をもとに作られていてとうの昔に終わったこととはいえ辛くなる気持ちは否めない。

映画が始まって最初がいちばん気を張っていて、美幌の美しい自然が映っただけでなんだかもう涙が出そうだった。自分=和人の、しかも現代の感覚とはまったく違うものを今から見るのだと身構えていたのに、あっけないくらいその感覚は消えて、86年に生きるアイヌの人々は現代に生きる私たちと違いがないように見えた。86年は私が2歳のころで、どうも懐かしさを感じる。

 

あらすじなどはHPや紹介ページで読めると思うのでここには自分の雑感だけ書き記したい。全部ネタバレというか場面の状況などくわしく書いているので注意。

 

 

 

 

この映画は全編がキタキツネの視点で語られる。いわば神になったキツネの視点からすべての出来事を追体験するような感覚になる。

一つ一つの祈りの言葉を慎重につむいでいく日川善次郎エカシ。独特の一定のリズムがアイヌ語の祈りにはあって、これはどの人が祝詞をささげても同じようになるんだろうかと疑問に思った。付点がついているような、三拍子になりそうでならない流れ。

75年ぶりに開催されるイオマンテアイヌの人々もよく知らない儀式という。日川エカシが自分以外にもこの儀式のやり方を知ってる人はなかなかいない、と説明していた。そもそも儀式が執り行われなかったから知る人がいないんだろうから、どういった理由で開催されていなかったのか、このあたりは抑圧の歴史などが隠れているのではないかと気になるところだ。調べたい。

ツネキチは日川善次郎エカシの庭でまるで犬のように飼われている。妻のキヨさんもツネキチ!と呼んで可愛がっている。このあたりはやがてくる儀式を思うとじんわりくるものがあった。儀式なのだからと割り切って行うのだろうなと予測していたのだけれど、企画の堤さんの質問に対して「わが子のように育ててきたのだから悲しい」と日川エカシが答える。悲しみを乗り越えて、新しいカムイに生まれ変わらせるのだからと。

 

この、悲しさや罪悪感(尾形をどうしても思い出すね)というのがキーワードな気がする。私たちは普段肉や野菜やありとあらゆる生き物の命をもらうのに罪悪感と向き合うことはほとんどない。透明化されている命の受け渡し。

キタキツネを殺すなんてひどい、むごい、という感覚はどうしても湧いてくる。でもそれがアイヌの人々にない感覚なのかというとそうではない。漁や採取をして食べ物を自然から受け取ってきたアイヌの人々は感謝や供物をささげることでこの感覚にずっと向き合ってきたのだろうなと思う。悲しい、つらい、苦しい、その感覚は神の国に送り返してまた戻ってきてねと祈ることと同時にそこにある。

それを思うと映画の冒頭であんなにキツネの死を恐れてびびっていたのに、いよいよ儀式のときになると心が穏やかなのだ。自分の中にいる動物愛護団体がキツネが喜んでいるわけはないでしょう、ほらあんなにおびえて…と突っ込みをいれつつも、自分があの場にいたなら受け入れるだろうというのもわかる。

映っていなかっただけかもしれないが、ツネキチが屠られたあとに泣いている人間は映らない。もちろん日川エカシも泣かないし、キヨさんも泣かない。一人涙をぬぐっているように見える女性がいたが、キツネに対しての涙なのかはわからない。

晴れやかに楽し気に、しかし気迫と真剣みを持って歌と踊りが繰り広げられる。

 

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他に印象に残った場面がいくつか。

妻キヨさんが若いころの日川エカシが酒飲みで、いわゆるワンオペ育児で苦労しまくって子どもと一緒に死のうとした、と涙をぬぐうシーンがあった。あそこだけ奇妙に全体から少し浮いていて、もちろんそれは日川エカシを妻の視点から語るという一場面だったのだけど、日川エカシの人柄は特に語られなかったのもある。儀礼の場では男が前に出て祝詞を唱えるもので女は別の役割があると徹底して描かれている映画で、儀礼から離れた一人のアイヌの女性のつらさや苦しみに寄り添う場面だったからなのかもしれない。

 

それから日川エカシの孫の男子二人が登場するのだけど、中学三年生の隆三少年を見てどうしても有古イポ(プ)テのセリフを思い出した。

まだあどけない小学六年生の正さんが「こういう儀式続けてやってみたい?」と聞かれて「あんまりやりたくない」と声変わり前のはにかんだ小さな声で答えるのに対し、隆三は立て続けに問われても額に手を当てて「別に」と答えるだけである。86年、14~15歳、おしゃれもしたいのかチェーンらしきものが学生服についているのも感慨深くて、ちょっとツッパリが入っているようなきりりとした男の子。それでいて家にいるシーンでは驚くほど陰鬱で静かな眼差しをしている。

学校での授業シーンも一瞬あって、そこでは隆三さんが明るく笑顔を見せているのが心に刻まれた。「学校を卒業したらここを離れたいのですが、それは家族の前では口に出せません」とナレーションが入る。

儀式の中では、「あんまりやりたくない」「別に」と答える二人ともこれまた見事に踊るのだ。好むと好まざるとにかかわらず、もしかしたらそれを意識するずっと前、小さいころから仕込まれていたんだろうなとうかがえる。でもここで「やりたくない」「別に」と答える二人の気持ちを心から理解することはできないのに「もったいないね、こんなに素晴らしい伝統文化なのに」と私が画面に向かって思わず言ってしまいそうになるのはなんと暴力的なんだろうかと考えた。

 

 

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かくしてキタキツネは屠られて神の国へ送られる。

どの時点でキツネが死んでいたのかは判然としない。花矢で射られた直後からぐったりしていたが、矢のさきは丸くなっていたように思う。レクッヌンパニと呼ばれる締め木で首の骨を折られたのかもしれない。皮をはがれ、首を切断されてその首が飾り立てらる。

首を囲んで皆が再び祝詞をあげ、歌をうたい、踊りを舞う。たくさんのお土産を持ってツネキチは神の国へ行き、そうしてまた人間の国に行きたいと神様に告げるのだという。86年の映像の最後に2021年の美幌の風景が映る。儀式の行われたチセは消え去り、日川エカシは亡くなり、娘のキク子さんから孫二人の消息が告げられる。もうイオマンテが行われることはないのかもしれない。

 

 

金カムを読み続けて最終話やインタビューを読むにつけて、こういった文化を伝える素晴らしい漫画なのにも関わらずどうしてこうなってしまったのかと苦々しい思いも現在進行形で抱えているけれど、漫画作品や野田先生だけに背負わせるのも酷な話だ(当然、は?と思ったことは批判する)。漫画の受け入れられ方は良くも悪くも私たちの社会の写し鏡でもあるし、作者と読者の関係だけではなく色んな要素が絡み合って話題作になっている。

批判され、賞賛され、色んな人の視点で語られて、それでゴールデンカムイという漫画が数十年後にどういう立ち位置の作品として、どういう手つきで扱われるのかが楽しみでもある。とにもかくにもエポックメイキングな作品の一つであることは間違いないと考えているし、面白さや良いところにたくさん救われて楽しませてもらったのだから。

 

「チロンヌㇷ°カムイ イオマンテ」は金カムを読んでいなかったら観ることはなかっただろう。単なる貴重な映像というだけではなくて、アイヌ文化の精神性の一部に触れることができる稀有な体験になった。