肉体と魂、あるいは迷宮と迷路の話。

ぽっぽアドベントがやってきた! 

 

12/11担当のふじおです。お絵描き同人マンをやっています。長らく海外ミュージカルや洋画のオタクをやっていたのですが、ひょんなことから漫画『ゴールデンカムイ』に出てくる異母兄弟にはまり、そのまま地獄の一丁目をさまよっています。

 

adventar.org

adventar.org

adventar.org

 

その1では藤見よいこさん、その2ではたぬきさんが担当しています。私は3つ目の担当。今年も盛り上がってますね。みなさんの好きなことへの愛と、文才に毎度ながら新鮮に感動しています。生き生きしている女の子、というだけでもうなんだか泣けてくるお年頃になってしまった。

 

昨年のぽっぽアドベントではオタクギア全開も全開、あらゆるものを振り落としながら愛してやまない登場人物・花沢勇作について重めの愛を語りましたので、よろしければご笑覧ください。花沢勇作さんのことは今も愛し続けています。同人誌もモリモリ描いています。

 

fujio0311.hatenablog.com

 

fujio0311.hatenablog.com

 

 

今回はめずらしくオタクごとではなくて、魂だけで生きてきた人間が肉体の大切さに気づき始めた話をします。オタクの話が読みたい人はこれまでのエントリをお読みいただけるとうれしいです。最近はナショナル・シアター・ライブの「シラノ・ド・ベルジュラック」の感想などを書きました。

 

 

 

さて、波乱の2020年も終わりに近づいています。なんなんでしょう、2020年。コロナウイルス感染症の中、あらわになる社会のアレやコレ、けっこうやばさ(主に政治的な面で)を私は感じたんですが、みんなたちはどうですか。最初からやり直せたらいいのにと思う出来事もたくさんありました。つらいですね。私もみんなもよく頑張りました。生きてるだけでえらい。

緊急事態宣言が出され、不要の外出が禁じられ、人との身体接触が疎んじられる。各々の事情というものがこういうときに想像できなくなるので、自分の器の小ささにも身をつまされます。

 

私の職場でも春はリモートワークを推奨されました。こういう事態になって私だけではなく多くの人が今まで当たり前に行っていた(あるいは強いられてきた)ことを振り返ったのではないでしょうか。私にとっても行きたくない飲み会に行かなくても良いほっとする時期でもありましたし、かえって仕事がやりづらくて夜中まで作業をする日々が続くなど面倒に感じる時期でもありました。が、このままリモートが続いたら体は楽なんだけどなあと思っていました。だって家から出ないのちょうらくちんだもん。

 

正直なところ、朝は弱くいつまでも眠っていたいし、夜の方がお絵かきしたりチャットをしたり楽しみがたくさんあるし、休みの日が家の中で完結することもあるインドアタイプのオタクにとってはラッキーでした。私はほんとうに体を動かすことをやってこなかった人間です。運動が好き嫌いのレベルではない。運動はけして嫌いではないけれど、三十余年の人生の中で圧倒的に座ってきた時間の方が長い。13時間くらいじっと座ってろと言われたらわりと大人しく座っていることができるレベルで動かざること山のごとし。

楽しいことがあると肉体から魂が躍り出てしまう生き方をしています。つまり、豪速球で前のめりに走り出す魂に肉体がついていけず道路をずるずるひきずられている状態。バカの考え休むに似たりとはよく申しますが、けして論理的思考が得意なのではなく、昔から外でわあわあ遊ぶより、頭の中だけで妄想したり話を作るのが好きだっただけです。私は友達のいない子どもで、机にむかって大人しく本でも読んでいればそれで幸せでした。黙って机に向かっていると勝手に大人が勉強していると思い込み、ほめてもらえるからです。

 

一か月ほど薄暗い部屋に閉じこもり仕事をしていて、子どもどころか中年にさしかかっている私はハッと気づきました。これはいくらインドアオタクでもまずい。ただでさえ筋肉を使わないのに、このままだと肉体が消滅してしまう!

 

 

そうして私はおそるおそる外に出て、引っ越して四年も住んでいるのにろくに歩いたことのない地元の散歩を始めました。近所には川があります。知らない学校もあります。おいしいおそばやさんもあることを教えてもらいました。歩くと汗がたくさん出て気持ち良いことも知りました。

こうやって近所を散歩するのはなつかしいようでもあり、苦いような思いもあります。まだ宮城県の片田舎にいたころ、未成年だった私は最悪なことに、とにかく「地元」というものを小ばかにして暮らしていました。実際の土地や人というより「地元」という概念を小ばかにしていたといってもいいです。

 

自分を大切にしたり、地元を無条件に愛するのがなんだか恥ずかしかったというのもあります。私は荻上直子監督の「かもめ食堂「めがね」「トイレット」などのおだやかな映画が好きなのですが、いいな~と思いつつちょっとケッと思うところがあります。だって「たそがれる」ってなによ?

いや、わかるんです。ぼーっとして何もしない。音楽を奏でたり、おいしいコーヒーを淹れたり、曲をかいたり、海を眺めたり。すごくいいのもわかる。わかるけど恥ずかしいし、なんならあまりにもやさしくてナイーブな世界を前面に出されるとちょっとイラッとするときもある。それは結局のところ自分が意固地になっているのを勝手に否定されたような気持ちになるからかもしれません。

弱くて力のない自分を肯定する、身近な幸せを認識し、感謝し、満足する。

これ、昔から私がめちゃくちゃのくちゃくちゃに苦手とすることです。わりと根が深いぞ。

 

f:id:fujio0311:20201204205453j:plain

いや、いい映画なんだけどさ。

 

 

田舎に住んでいた私は都会にあこがれ、外国の文化にあこがれ、異様な飢えを感じながらずっと生きてきました。大した能力もないのに親に期待されて育ち、自尊心だけが強い子どもでした。早くここから出たい、芸術に造詣が深い趣味のあう素敵な人と話がしたい、奇抜なおしゃれをしても浮かない土地に行きたい、噂話ばかりの人間たち、女は愛嬌をふりまき家事をしろという男たち、プライベートにずけずけと入ってくる過度な干渉と距離を置きたい。そういうことを自分のせまい部屋に閉じこもってぶつぶつと考えていた二十代でした。被災したときですら、弱い自分を認めませんでした。

 

きらびやかで刺激的な文化が私の求める世界で、道端の花の美しさがなんだというのか。

 

 

だけど、やっぱりよいのです。 河川敷でぼーっとしながら、散歩、いいじゃん…とあっさり私は気づきました。SNSで嫌なことがあるとそれをずっと見続けてしまいます。強制的にひとりぼっちで頭をからっぽにする時間をわざわざ作り出すなんて、あほみたいだなあと思います。でも意識的にやらないと、私はもうだめになっていました。

夏には小一時間程度ではありますが特にルートを決めずぷらぷらとウォーキングをする習慣もできました。そんなに大きな運動効果を求めていたわけではありません。

行先や時間にしばられない、目的のない歩行が目的でした。考えてみれば大人はこれをほとんどやりません。目的もなくフラフラしている大人は、すべからくへんなひと扱いになってしまうからです。比喩としても直喩としてもフラフラしているはあまり褒め言葉にはなりません。出発地と目的地があって、最適化されたルートで無駄なくスピーディーに。乗り継ぎがうまくいかないと舌打ちします。会いたくない人にばったり出会ったり、うっかり遅刻してしまうとそれはもう失敗とカウントされます。

 

 

イギリスの人類学者ティム・インゴルドは人類学教育の想定として、知識で武装するものではなく、目の前に生じている経験の世界に慎重に注意を払うための方法が必要だと言っています。「迷宮(ラビリンス)」と「迷路(メイズ)」というたとえを彼は著書の中で使っています。

迷路をすすむときはゴールを目指すという意図をもって私たちは進みます。意図が先にあって行動はその結果にすぎません。迷宮をたどるとき、途中でおもしろいものがあれば足を止めて観察します。においをかいだり、考察したり、これはなんだろうと考えます。その瞬間、「会社」や「家」といったゴールは頭から消え去り、知識の迷宮に人は入り込むことができるのです。

インゴルドは迷宮は世界に対して開かれているが、迷路は閉じている、と述べています。

 

 

 

 

そんなわけで散歩したりウォーキング・ランニングをしているときはできるだけ迷宮のつもりでうろうろしています。この自由を満喫せよ。

私にとってはSNSをしたり映画を観る時間ではなくなるだけでもデトックスになるなと思いました。目の前のものを観察したり、道に出ているフードバンに立ち寄ってなにか食べてみたり、ずっと気になっていたお店に勇気を出して入り、店員さんとくだらない話をしたり。

それからじっさいに歩いてみると足首がどうもいうことをきかない、太ももがあがらない、など自分の体なのにまったくコントロールが効かないことに気づきます。からだ~!!!!! 俺の脳みその指令を聞け~!!!!

そうはいってもこれまでろくに話しかけもしなかったのですから、体はしらんぷりです。私の体は私の脳みそのいうことをまったく聞かないことがわかりました。そんなわけで体と対話する、どころか今は体の愚痴を聞くくらいの関係から始めています。

余談ですが私は昨年秋に道端ですっころんで左手小指の骨を脱臼骨折し、手術を2回したものの二度と関節が曲がらなくなってしまいました。小指もまさかそんなことになろうとは思わなかったでしょう。本体である私は生きていればそんなこともある…と受け入れているのですが、大人になって転ぶとちょっとしたケガでそういうことにもなってしまうのだ。

 

 

体を動かすこともそうですが移動が禁じられた中、長時間乗り物に揺られて移動することの大切さもしみじみ感じています。物理的に遠くに行き、その土地の匂いをかぐ、足裏で踏みしめる、食べたことのないものを食べる。

私はこの年になってやっと遠くの土地の社会問題や文化を考える価値だけではなく、自分の体、家族、自分の生まれた土地、日本を含めた東アジアを知る面白さに気づき始めました。ほんとうの意味でフラフラと地に足がついていないとは自分のことだったなとも思うのです。今いちばんしたいことは国内旅行です。

 

ここ数日、めっきり寒くなってきたので、夜に時間があっても私はかたつむりのように家に引きこもっています。原稿もしていたし。そうしたらまた体がすねてしまって、膝がポキポキ鳴るようになりました。痛みはありません。整体で診てもらったらおかしいところはないようなので、ただの運動不足と診断されました。これを書いている今もポキポキ言います。

相変わらず運動は苦手だし、ストレッチだって体が硬すぎて自己流でやればやるほど体を痛めているのでは…と心配になります。人はそう簡単に変われませんが、その変化の兆しだけでも感じられてよかったなと思う一年でした。

 

みんなたちも好きなことを好きなようにやって、心身ともに健康であれ。人生は意外と長いしだるいことばかりありますが、ほどよくチルしていきましょう。

 

明日は宇宙猫ながよさん、空尾さん、ひろちさん、3人のすてきな人たちです。