2021.3.11

37歳になった。37歳て生きてる年数でいったらけっこうな大人なはずなのに、実感がわかない。わかないのが恥ずかしい。けど本当です。

先日中古マンションを購入して、今は家具が全然ない空間に住んでいる。田舎で特に便利でもない沿線だけど駅からは近くて一人暮らしには十分な広さで、将来的にもペットが飼える物件なのが決め手だった。年末に見に行き、年明けには決めて約二カ月で手続きを済ませた。そういうことができるようになったのも大人になったと思うし、もちろん誇らしいし、不安もあるけどわくわくしている。

 

3月11日はマスコミも社会も10年という節目で東日本大震災を語る一日だ。ほんとうは出来事に節目なんかない。継続して日々は続くし、つらさや悲しさが時間で癒されるかどうかも人による。そもそも10年を区切りのいい単位としている前提がよくわからない。人間の生きる時間の単位が0~100年程度であるだけで、悠久の時間でいえば一瞬だ。10年は時と場合により伸縮可能な時間だと思う。

だけど同時に区切りが必要な人がいるのもわかるし、自分自身も何の意味もなく「10年だなあ」と思う。私は27歳で今よりもずっと世の中のことも知らなくて、そのくせ自分はたいそうな人間だと思ってチャラチャラと生きていた(それは残念なことにあんまり今も変わらない)。

いったい私にとって東日本大震災は何だったんだろうと今でも考える。教訓にすべきことはたくさんあるんだけど、学びにするような出来事ではないと言われればそれもそうだし、社会の役に立ってたまるかという気持ちもある。一定の期間は震災をそれらしく語ること自体が疎ましく、でも機会をすばやくとらえて、事あるごとに神妙な顔でそれらしく語っていた恥ずかしさも大いにある。語るべきではないことも語ってしまったこともあって、たぶん他人を傷つけたこともある。

正直いってぜんぜんわからない。言葉で語りたいのに語りつくせないものがある、何を言いたいのかわからないのに何かを言わなきゃいけない気持ちだけが募るし、意味もないのにかっこつけてこんな記事を書いていること自体、かっこ悪くてもどかしくて今すこし涙が出そうになる。でも記録なので書いておく。

 

 

 

 

ここ数年で戦争や災害や事件に巻き込まれた人、ヘイトクライムや暴力で傷ついた人の語りがとても気になっているのは自分自身がまだ言葉を見つけていないからなのかもしれない。震災とアートのつながりに興味を持っていて、やっと最近になって調べたり読書したりしている。漠然とそういう本を読んでいるとまだまだ語られていない出来事が山ほどあるし、語られていない言葉があるのがわかる。声をあげられなかった人がたくさんいるし、社会が遅まきながらそういう声に耳を傾け始めている時代でもある。

 

私は今のところパートナーも伴侶も子どももいないし、時間はたくさんある。仕事も慣れてきたところでもう一段階大きくなりたいというか、今までやってなかったことをやってみたくてそわそわしている。ばかの発言だけど、自分の尺度で「でかいことをしたい」時期なのである。なんとなく自分にはそれができる気がしている。

さっきのモヤモヤのことだって10年を節目とするのであれば、次の10年でそのもどかしさを少しでも言語化できるようにしたい。47歳でもきっとまだまだわからないことがあるし、ひょっとしたら1年後はもう何もかも嫌になってまた違うところに住んでいたりするかもしれないし、病気やケガでそれどころではないかもしれないけれど。

 

3月11日に自分のことを振り返って指差し確認する日にできているのは親しい友人や家族や仕事のおかげでもある。今日は夏に備えてがらんとした北向きの寝室に取り付けるためのエアコンを買ったりして、ひゅー大人!と自分のことをひやかしながら、やたらとハッピーな音楽が流れる家電量販店で黙祷をした。目は閉じなかった。