誰がために鐘は鳴る

勇尾で同人を描き続けたオタクによるゴールデンカムイの310話についてネタバレしている記事です。

ご注意ください。

 

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尾形百之助が亡くなった。

あまりにも予想を超えた壮絶な最期に私はけっこう混乱していた。

尾形は金カムの中でも主人公をしのぐかしのがないかの勢いでたいへん人気があるので本誌直後のTLはうめき声と混乱と涙にあふれていた。

私はどちらかというと、その尾形の異母弟である花沢勇作のオタクなので尾形くんが亡くなった悲しみよりも四年間二人の関係を模索し続けた行為にひとつの回答が得られたようで、不思議な充足感もありつつ腑に落ちないものもあった。

 

2019年12月に花沢勇作さんへの異様な執着と勝手な想いをつづったのがこちらの記事なので、参考にお読みください。

 

fujio0311.hatenablog.com

 

結果的にいえば、多少の展開(「ウウウ勇作殿…」と『花沢勇作童貞防衛作戦』)はあったものの、私の人物解釈像に2019年からそれほど齟齬はない。なので花沢勇作さんについてわあわあ言っててよかったなあと思ったりもした。

 

 

■ 罪悪感は弟の姿をして

 

尾形百之助は罪悪感の象徴として花沢勇作の姿を思い描いている。回想に現れる花沢勇作は常に目元が見えない。自問自答する中で尾形の内なる声は「それ(罪悪感)と目を合わさないようにしてきた」「向き合おうとしてこなかった」といい、「勇作だけが俺を愛してくれたから」と続ける。悪いことをするやつは見られるのが怖い、の伏線がここで回収された。

そして明かされた勇作さんの目元。尾形と少しも似ていない方が残酷で物語的には面白いだろうなと思っていたので、予想通りではあったがあまりの瑕疵のない美しさに傷つくような思いだった。ほとんど弥勒菩薩のようである。尾形にとっての神様のような存在だからわかるのだけれど。

 

衝撃の「勇作だけが俺を愛してくれたから」。

おまえ…おまえ、尾形…愛情を素直に受け取っていたのか……とオタクはわなわなしてしまった。ここは、尾形のオタクというより勇尾の、そして花沢勇作のオタクとしてはたいへんに嬉しい一言だった。

165話公開当時、尾形ファンによる「花沢勇作は傲慢で独善的な距離の詰め方をして尾形を追い詰め傷つけた、遠慮や配慮がない、だから花沢勇作は最低最悪で嫌いだ」という評価が散見された。たぶんいまだに勇作さんが憎くて嫌いだ、とか尾形の方が正しい、といった意見はある。好き嫌いは自由だ。それに正直尾形ファンの憤りがまったくの的外れとは思わない。

花沢勇作が兄弟というものに深いあこがれを持ち、軍の規律を乱すような行動を積極的に取っていたのは間違いはない。また、それによって尾形が面食らっていたのは本人の弁であるから、いろんな意味で想定外の行動を平気でとるのが花沢勇作という人物なのだろう。

ただ同時に、尾形の内心を勝手に忖度して「異母兄弟で上官である自分が話しかけたら迷惑では」などと勇作が決めつける方が私はよほど傲慢で嫌な奴だと思う。「私は話しかけたいと思っているんですがね、兄様は迷惑に思うでしょうから…ほら立場も違いますし、私は仲良くしたいんですけども、ね、ふつうの人ならこの感覚わかるでしょう?」なんていう考え方をする花沢勇作は嫌だ…。

これはけっこう悪意がある書き方をしています。極端な例ですみません。でも私が変なだけでこういう考え方をする方がふつうなのかもしれない。

 

 

アプローチし続けた結果、165話で「兵営では避けられてるような気がしていましたので」と花沢勇作自身が語っている通り、尾形は何らかの理由で避けていたのだろう。これも人間同士のやり取りとしてはごく当然の展開である。

この何らかの理由が、「ほんとうに迷惑だった」「迷惑ではないが本人にもよくわからない理由で避けていた」「勇作の愛情が怖くなった」「鶴見と計画していた遊郭の策略のためにわざと身を隠していた」「ただのタイミングだった」のか、はたまた別の思惑があったのかは明かされていないのでわからないのだ。

戸惑いを覚えながらも、尾形は勇作からの愛情を認識していたことだけが結果としてわかる。

 

 

■ 人間・花沢勇作

 

兄の自死に手を添え、悪霊のように尾形を抱え高笑いをしながら列車から闇へ消えていった罪悪感が勇作さんの姿をしているのは花沢勇作ファンとしてはつらいものがあったが、あくまで尾形の中の罪悪感であり勇作さん自身ではないと納得している。

罪悪感が尾形の自殺をほう助し、罪悪感に包まれて尾形は死んでいったのだ。最期まで罪悪感を拒否し続けていたのは尾形らしいな、とも思えるようになった。

 

ここにきてようやく気付いたことがある。あれこれオタクが深読みしたり、次の展開を予想しても野田先生は「描いたものがすべて」の作家だということだ。よく考えたらそれはそうだろう、週刊連載が前提の物語で叙述トリックなどやっていたら誰もついてこれない。なので幸次郎のセリフも、尾形のセリフも、そのままシンプルに受け取るべきなんだろう…。

『花沢勇作童貞防衛作戦』はタイトルに名前が入っているにも関わらず、完全に勇作さんは事件の蚊帳の外だ。もとはといえば両親のそれぞれの思惑がぶつかって起きた替え玉事件だが、金子花枝子や杉元や菊田、鶴見はては尾形まで巻き込んでいるにも関わらず本人は最後まで何も知らされていない。こんなひどいことがあるだろうか。

本人の自由意思というにはあまりにも選択肢のない人生だが、その中で旗手に任命されたら兵たちのよすがとなって身をささげるという勇作…。私はぜーんぜんこれを美談にしたくない。というか美談にしてしまうと特攻隊の肯定と何も変わらないのである。

かといってこれをもって勇作には意思がない、ただの父親のきれいなお人形だといわれるのも何かが違う気がする。また杉元のように選択肢を与えるといいつつ、エビフライじゃねえのかよ!と殴り掛かるのも極端な話だ。

 

花沢勇作は当時の軍国主義を信じて信じて、信じぬいて死んでいった若者たちを体現しているのかもしれない。いっそのこと杉元につかみかかられたときに信念の揺らぎを見せてくれたらよかったのですが…道理のない暴力におびえるだけでこのあたりもかなり温厚で穏やかな性格なのが垣間見られて私は悲しい。

 

 

花沢勇作のオタクとしては、これまでずっと偶像として描かれてきたことを踏まえてもっと花沢勇作の人間らしい姿を…と求めてしまっている。というか今の今もそう考えている。

だけれども、野田先生が書いたものがすべてだとすると、やはり花沢勇作の偶像ではない究極に人間らしい魂の底からの言葉はやはり165話のあのシーンであると考えなおした。

 

「兄様はけしてそんな人じゃない。いつかわかる日が来ます。人を殺して罪悪感を微塵も感じない人間がこの世にいて良いはずがないのです」

 

このセリフが正しい、正しくないの話でいえば前半は尾形に関しては当たっていたということになる。

尾形は勇作を殺して罪悪感を感じていたし、それがわかる日が自分の死ぬ日だった。

同時に後半は間違っている。罪悪感を感じない人間はいる。宇佐美しかり、囚人たちしかり。「この世にいて良いはずがないのです」も人の善性を信じる勇作はそう思いたいのだろうな…という感じだ。

面白いのは尾形がしっかりここにひっかかりを覚えてしまった点だ。

 

 

■ 「欠けた人間」理論

 

さて、罪悪感の話でいうと尾形は幼少期に母親も殺めているのだから、母親への罪悪感も持ち合わせていそうなものだ。しかしいうに事欠いて「お父っつぁまに愛があるか知りたくておっ母を殺したのに意味なかったってこと?」と返している。

母親に自分を見て欲しかったであろうことは幼少期の描写で「おっ母、みて…」と母親の顔に手を差し伸べている姿もあってよくわかる。尾形が母親の愛を求めていたのは間違いない。

このあたりの尾形の論理に乗っかってしまうと頭がぐるぐるしてくる。

 

 

「欠けた人間」という言い回しは103話で初めて登場する。

 

愛情のない親が交わって出来る子供は 何かが欠けた人間に育つのですかね?

 

 

これは漠然と尾形が幼少期から抱き続けてきた母親から愛されない不安やさみしさや憤りが自分に「何かが欠けている」ことを原因と考えた論理なのだろう。これはほんとうに悲しくてつらい結論である。子どもは自分に原因があると考えてしまうものだ。

 

そして兵営で出会った花沢勇作が兄と尾形を慕い、愛情を向けてきたことが理論を補強する(と尾形は考える)。愛されて生まれた子供だから、誰にも愛されておらず、複雑な関係にもかかわらず屈託なく自分にも愛情を向けてくるのだと。

尾形は勇作さんからのアプローチを避けてはいたが、本編中で一度も疎ましがったり嫌ったり怒りを見せたりはしていない。

尾形は愛されるにふさわしく、愛を受け取れる人間なのである。現に花沢勇作は尾形を愛していた。異様な願い事をする兄のいびつさや孤独に気づき、思わず抱きしめて涙を流さずにいられないくらいに。

 

しかし、瀕死の幸次郎との対話で、図らずも幸次郎が欠けた理論を肯定してしまう。尾形の笑みは「自分は正しかった、間違っていなかった」ということなのだろう。

この尾形の自信が流氷問答後あたりから揺らぎ始めることになる。幻覚の出現は尾形が高熱で朦朧として心身が弱っているときだったが、流氷問答後からは様子が変わってくる。それは狙撃手の宝である視力を奪われたことによる精神的な揺らぎなのか、怪我からくる副作用なのかもしれない。抑えつけていたものが抑えられなくなってきた、フェーズが変わったとみてもいい。

 

ひとつ残念だなと思うのは、「欠けた」理論が間違っていようが間違っていなかろうが、自分でそう認識している感覚への寄り添いが無くなってしまった点である。金カムには明らかに社会倫理とかけ離れた感覚の魅力的な囚人たちが数多く登場し、彼らのほとんどは作中で亡くなっているものの命のきらめきを見せてくれている。

尾形の自分が「欠けて」いる人間では?という疑問は自己理解の契機と考えるとけして無駄な問いではない。「欠けて」いてもその生は肯定されてほしかったと作品のいちファンとしては思わずにいられない。

特に尾形のように家庭環境が複雑で孤独なキャラクターへシンパシーを感じているファンも数多くいるのが見受けられるため、美学としてのキャラクターの自死は理解できるがやはりショッキングではあった。これも本人が罪悪感から逃れるために行ったことでその死は副次的な結果であり、自死とはとらえていないという考え方もあるがいずれにせよ思考停止を選択したと考えるとなかなかにつらい。

 

 

 

■ 皮膚で感じる愛の温度

 

罪悪感は弟の姿をしている、と同時に罪悪感を抱くのは尾形が勇作に何かしらの感情を抱いているからではとも考えられる。

勇尾のオタクなので、もしかしたらそれは愛だったのでは…?と考えたいところだ。

もちろん勇作からの愛を認知していたものの尾形が勇作を愛していたとは明言していないのが、これはただの願望である。しかし罪悪感を見ることを否定しつつ「後悔などしとらん!」と叫ぶ尾形の姿は痛ましく、セリフも行動もすべて反転して見ることもできるかもしれない。

 

 

閑話休題

最近、自分は五感を使って生きることができているだろうかと考えている。物事をよく見て、聴き、味わい、触れているか。頭でっかちに考えたり言葉を優先させたりしがちな資質なもので、余計にそう思うのかもしれない。

身体的感覚、皮膚感覚。

 

今回の尾形百之助の凄まじい自己との対話、彼の人生の中で幾度となく繰り返されたであろう問いと仮説。

 

 

 

2018年に描いた同人誌『ノスタルジア』の感想をくれた友人とやり取りしたことの上書きだが、尾形自身が言語化できず知覚すらしていないようなおぼろげな感情、相手のことを理解しようとも知ろうともしておらずどこか未熟な子どもの精神の尾形がそれでも隣に弟がいたことを断片的に覚えていて、それが「愛してくれた」の一言に集約されているように思う。

 

 

■ そは汝がため鳴るなれば

 

すっかり勇尾のことがわからなくなってしまった。描きたいものを好き放題描きまくったので、描けなくなってしまったともいえる。もうずいぶん同人誌も出したし、満足してしまったのもあるかもしれない。310話を起爆剤として何かを描くにはあまりにも物寂しい。

解釈違いなどではなく、ほぼほぼ二人の関係をこねくり回して四年も考えていた結果、当たっていたせいかもしれない。しかしあまりにも平行線で答えが出ないカップリングなのを思い知らされた感覚でもある。

 

これはとても誠実でもある。

花沢勇作は二百三高地で殺されたからだ。

死んだ人間はもう答えようがない。殺した尾形にも生きている勇作は答えを返してくれることはない。花沢勇作が何を思って兄に近づき、兄を慕って距離を詰め、愛情を注いでいたのか、また殺されてどう思うのかはわからない。

 

幽霊は生きている人間だけが見る。

 

 

なんぴとも孤島ではなく、かすかなつながりはあり、尾形はずっと鐘の音を聞いていたのだろう。しかし最期まで尾形は孤島であろうとした。見事な尾形劇場であったことよなあ、と思うさみしさとかすかな過去にあった弟からの愛という光を味わうことができた310話でした。

おしまい。