『花が咲く』と私

 

震災のあった3.11が近づくと頭によぎるイメージがある。『花は咲く』を歌う歌手や有名人の姿だ。明るいクリーム色の背景に華やかなドレスやスーツを着て慈愛に満ちた笑顔で歌う姿。これはイメージなので、実際に流れた映像かどうかの真偽は重要ではない。

 

私にはどうも『花は咲く』に対する執着があるようだ。震災の直後に公に提示された楽曲である意味を断続的に考え続けてきた。

当時はテレビで流れるたびに不機嫌な顔をしてしまっていたのを思い出す。表情に対して私の内面はどうだろうか。不快、矮小化、冷笑、軽蔑、怒りだけではない。

平易でメロディアスで覚えやすく、いい曲だと思う。柔らかく呼びかけ、包み込むような美しさがある。サビ部分の六度の跳躍はいささか歌いにくさはあるけれど、なんだかんだでいつでも歌えるのである。

でも脳のどこかで「おいおい、そんなに簡単に感動するなよ。これがどういう曲なのか考えてみたことはあるのか」と小さく警告する声も聞こえ続けている。特に多くの人に話したこともなく、こんな感じでひとり相撲をずっと取っている。アンビバレントな感情をもう12年近く抱えているので、我ながらご苦労様だ。とはいえ、私が震災の出来事を距離を置いて言語化できるようになったのは震災からゆうに6年くらい経ってからの事で、そこから同じだけの年月が流れた。

 

 

2011年3月11日に発生した東日本大震災の被災地および被災者の物心両面の復興を応援するために制作されたチャリティーソングで、日本放送協会NHK)が、震災後の2011年度から行っている震災支援プロジェクト「NHK東日本大震災プロジェクト」のテーマソングとして使用するために企画制作した曲である。国内向け放送(ラジオ第2放送を除く)・国際放送(NHKワールドTVは歌詞および出演者の英語字幕を追加表記)とも編成の空いた時間帯を利用して随時この曲を流している[※ 1]

作詞は宮城県仙台市出身の岩井俊二が手掛け、作曲・編曲は岩井と同じく同県同市出身[1]菅野よう子が手掛けている。歌唱参加者は、岩手県宮城県福島県の出身者とゆかりのある歌手タレントスポーツ選手で、「花は咲くプロジェクト」名義となっている。

作詞の岩井は「この歌は震災で亡くなった方の目線で作りました」。また作曲・編曲の菅野は「100年経って、なんのために、あるいはどんなきっかけで出来た曲か忘れられて、詠み人知らずで残る曲になるといいなあと願っています」と語っている。

 

これはWikipediaからコピペしてきたままの情報。NHKという限りなく公共放送機関に近い団体がサポートしているチャリティソングである。『花は咲く』と強く結びついている記憶は絆、と毛筆で書かれた漢字だ。

これは被災地からの声をNHKが拾った短時間の番組が一時期流れていて、そのラストには必ず「絆」の文字がバーンと出る。番組の締めはメッセージを書いたボードを持った人がにこやかに手を振ったりしながら思い入れのある相手へ呼びかけ、『花は咲く』のサビがワンフレーズ流れる。おしまいの定型化。

 

「絆」:馬・犬・たか等をつなぎとめる綱。転じて、断とうにも断ち切れない人の結びつき。ほだし。

 

「絆」は東日本大震災に限らず、ここ数年で頻繁に耳にする。「家族の絆」はコロナ禍でも多くの場面で語られていた。外出制限、ステイホームで家にとどまる(とどまらざるをえない)期間は家族という一単位がより長い時間を過ごし、向き合ってきた。

また、公助・共助・自助といった助け合いのシステムにおいて、前首相が「まずは自助」と宣言したことは記憶に新しい。介護や医療の場面でも家族で助け合いましょう、と奨励されている。

 

 

つなぎとめておくもの。

 

『花は咲く』という曲は私が震災と音楽を考えるときにどうしても切り離せない。喉に見えない何かがひもづいている不愉快な感覚もあり、同時に思考をたどるための道しるべのような存在でもある。

「花は 花は 花は咲く 私はなにを残しただろう」という歌詞は亡くなった人の目線だそうだ。2番のラスト、「いつか恋する君のために」は特筆すべきものがある。植物の花はサイクルとして受粉のために咲く。これほどまでに婉曲的かつ直接的な表現もない。天災により「生の時間をその場でぱつんと断たれた人間」に代弁させることの意味を、考えこんでしまった。

 

花は咲いて、散り、枯れて、また命はめぐる。サークルオブライフ。自然の摂理が繰り返され、時が流れるとともに辛さや痛みや悲しみが癒えることもあるかもしれない。

しかし私には「花は咲く…」と歌う時に真綿で首を絞められるような、柔らかく美しい布で顔を覆われるような感覚も同時にある。それは声を出す行為と相反する抑圧の予感だ。丁寧に歌い上げながら覚える、一抹の足元がすくわれるような冷たい感覚。

この曲は一時期、音楽の教科書にも取り上げられていた。「被災者」-非「被災者」、「被災地」-非「被災地」に限らず、またアマチュアやプロ、楽器や歌唱を問わず、楽譜も何百回と使用されただろう。そこで形骸化していくものと変わらないものは何か。

明るいNHK大ホールの舞台で、素敵な衣装をまとって、手を観客に差し伸べながら歌われる脳裏から離れないイメージとは何か。

 

植物や木々が自然の摂理に従って成長し、温かくなると芽を出して花開くように、12年経って私の中のわだかまりや震災の記憶は思い出すように咲いては散る。どこかへ漂ってまた根付いて、そしてわずかながらに変化をしながらまた咲いては散り、を繰り返し続けている。ふわふわと意識が寄り道をしながら漂う先も様々で、一つとして同じ瞬間はない。咲いて終わりではないことに改めて気づかされる。朽ち方も咲き方も厳密に同じときはない。

「100年経って、なんのために、あるいはどんなきっかけで出来た曲か忘れられて、詠み人知らずで残る曲になるといいなあと願っています」と作曲家は語る。長い時間が流れたとして、チャリティーを名目に作られて公共に近い番組で何度となく使用された曲が匿名性を帯びることはあるのだろうか。そうかもしれない。

 

3.11で私はまた一つ年を取る。成長/老化は細胞が繰り返し生まれては死ぬことによって進む。目の前のことに忙殺されたり、楽しいことに浮かれたり、そのうちボケたりしてこういうせんのないことを思考し続けるのも終わる日が来る。

電車に揺られながら考えていて『花は咲く』がとうの昔にテレビで流れなくなったことに気づく。

 

 

追記

花は咲くかもしれないし(明日に、15年後に、100年後に)、咲かないかもしれない(咲かずとも生きている個体もある)

というようなことを言いたかった。花のイメージはあまりにも雄弁で我々はいろんなことを花に背負わせるけれども、それは自然の営みのひとつなんだよな。そして花のイメージで覆い尽くされて勝手に弔われてしまう、あるいは祝福されてしまうものがあるんじゃないかなと思ったのでした。ほんとのところはまだ樹皮の下でじくじく力を溜め込んでいたり、傷が癒えていなかったりするかもしれない。

相変わらず言いたいことがまとまらないのですが、自分のための記録8割、親しい人が読んでフーンと思うくらいがいいなが2割の文章です。