『花が咲く』と私

 

震災のあった3.11が近づくと頭によぎるイメージがある。『花は咲く』を歌う歌手や有名人の姿だ。明るいクリーム色の背景に華やかなドレスやスーツを着て慈愛に満ちた笑顔で歌う姿。これはイメージなので、実際に流れた映像かどうかの真偽は重要ではない。

 

私にはどうも『花は咲く』に対する執着があるようだ。震災の直後に公に提示された楽曲である意味を断続的に考え続けてきた。

当時はテレビで流れるたびに不機嫌な顔をしてしまっていたのを思い出す。表情に対して私の内面はどうだろうか。不快、矮小化、冷笑、軽蔑、怒りだけではない。

平易でメロディアスで覚えやすく、いい曲だと思う。柔らかく呼びかけ、包み込むような美しさがある。サビ部分の六度の跳躍はいささか歌いにくさはあるけれど、なんだかんだでいつでも歌えるのである。

でも脳のどこかで「おいおい、そんなに簡単に感動するなよ。これがどういう曲なのか考えてみたことはあるのか」と小さく警告する声も聞こえ続けている。特に多くの人に話したこともなく、こんな感じでひとり相撲をずっと取っている。アンビバレントな感情をもう12年近く抱えているので、我ながらご苦労様だ。とはいえ、私が震災の出来事を距離を置いて言語化できるようになったのは震災からゆうに6年くらい経ってからの事で、そこから同じだけの年月が流れた。

 

 

2011年3月11日に発生した東日本大震災の被災地および被災者の物心両面の復興を応援するために制作されたチャリティーソングで、日本放送協会NHK)が、震災後の2011年度から行っている震災支援プロジェクト「NHK東日本大震災プロジェクト」のテーマソングとして使用するために企画制作した曲である。国内向け放送(ラジオ第2放送を除く)・国際放送(NHKワールドTVは歌詞および出演者の英語字幕を追加表記)とも編成の空いた時間帯を利用して随時この曲を流している[※ 1]

作詞は宮城県仙台市出身の岩井俊二が手掛け、作曲・編曲は岩井と同じく同県同市出身[1]菅野よう子が手掛けている。歌唱参加者は、岩手県宮城県福島県の出身者とゆかりのある歌手タレントスポーツ選手で、「花は咲くプロジェクト」名義となっている。

作詞の岩井は「この歌は震災で亡くなった方の目線で作りました」。また作曲・編曲の菅野は「100年経って、なんのために、あるいはどんなきっかけで出来た曲か忘れられて、詠み人知らずで残る曲になるといいなあと願っています」と語っている。

 

これはWikipediaからコピペしてきたままの情報。NHKという限りなく公共放送機関に近い団体がサポートしているチャリティソングである。『花は咲く』と強く結びついている記憶は絆、と毛筆で書かれた漢字だ。

これは被災地からの声をNHKが拾った短時間の番組が一時期流れていて、そのラストには必ず「絆」の文字がバーンと出る。番組の締めはメッセージを書いたボードを持った人がにこやかに手を振ったりしながら思い入れのある相手へ呼びかけ、『花は咲く』のサビがワンフレーズ流れる。おしまいの定型化。

 

「絆」:馬・犬・たか等をつなぎとめる綱。転じて、断とうにも断ち切れない人の結びつき。ほだし。

 

「絆」は東日本大震災に限らず、ここ数年で頻繁に耳にする。「家族の絆」はコロナ禍でも多くの場面で語られていた。外出制限、ステイホームで家にとどまる(とどまらざるをえない)期間は家族という一単位がより長い時間を過ごし、向き合ってきた。

また、公助・共助・自助といった助け合いのシステムにおいて、前首相が「まずは自助」と宣言したことは記憶に新しい。介護や医療の場面でも家族で助け合いましょう、と奨励されている。

 

 

つなぎとめておくもの。

 

『花は咲く』という曲は私が震災と音楽を考えるときにどうしても切り離せない。喉に見えない何かがひもづいている不愉快な感覚もあり、同時に思考をたどるための道しるべのような存在でもある。

「花は 花は 花は咲く 私はなにを残しただろう」という歌詞は亡くなった人の目線だそうだ。2番のラスト、「いつか恋する君のために」は特筆すべきものがある。植物の花はサイクルとして受粉のために咲く。これほどまでに婉曲的かつ直接的な表現もない。天災により「生の時間をその場でぱつんと断たれた人間」に代弁させることの意味を、考えこんでしまった。

 

花は咲いて、散り、枯れて、また命はめぐる。サークルオブライフ。自然の摂理が繰り返され、時が流れるとともに辛さや痛みや悲しみが癒えることもあるかもしれない。

しかし私には「花は咲く…」と歌う時に真綿で首を絞められるような、柔らかく美しい布で顔を覆われるような感覚も同時にある。それは声を出す行為と相反する抑圧の予感だ。丁寧に歌い上げながら覚える、一抹の足元がすくわれるような冷たい感覚。

この曲は一時期、音楽の教科書にも取り上げられていた。「被災者」-非「被災者」、「被災地」-非「被災地」に限らず、またアマチュアやプロ、楽器や歌唱を問わず、楽譜も何百回と使用されただろう。そこで形骸化していくものと変わらないものは何か。

明るいNHK大ホールの舞台で、素敵な衣装をまとって、手を観客に差し伸べながら歌われる脳裏から離れないイメージとは何か。

 

植物や木々が自然の摂理に従って成長し、温かくなると芽を出して花開くように、12年経って私の中のわだかまりや震災の記憶は思い出すように咲いては散る。どこかへ漂ってまた根付いて、そしてわずかながらに変化をしながらまた咲いては散り、を繰り返し続けている。ふわふわと意識が寄り道をしながら漂う先も様々で、一つとして同じ瞬間はない。咲いて終わりではないことに改めて気づかされる。朽ち方も咲き方も厳密に同じときはない。

「100年経って、なんのために、あるいはどんなきっかけで出来た曲か忘れられて、詠み人知らずで残る曲になるといいなあと願っています」と作曲家は語る。長い時間が流れたとして、チャリティーを名目に作られて公共に近い番組で何度となく使用された曲が匿名性を帯びることはあるのだろうか。そうかもしれない。

 

3.11で私はまた一つ年を取る。成長/老化は細胞が繰り返し生まれては死ぬことによって進む。目の前のことに忙殺されたり、楽しいことに浮かれたり、そのうちボケたりしてこういうせんのないことを思考し続けるのも終わる日が来る。

電車に揺られながら考えていて『花は咲く』がとうの昔にテレビで流れなくなったことに気づく。

 

 

追記

花は咲くかもしれないし(明日に、15年後に、100年後に)、咲かないかもしれない(咲かずとも生きている個体もある)

というようなことを言いたかった。花のイメージはあまりにも雄弁で我々はいろんなことを花に背負わせるけれども、それは自然の営みのひとつなんだよな。そして花のイメージで覆い尽くされて勝手に弔われてしまう、あるいは祝福されてしまうものがあるんじゃないかなと思ったのでした。ほんとのところはまだ樹皮の下でじくじく力を溜め込んでいたり、傷が癒えていなかったりするかもしれない。

相変わらず言いたいことがまとまらないのですが、自分のための記録8割、親しい人が読んでフーンと思うくらいがいいなが2割の文章です。

 

 

2月の記録

2月
〈配信〉
ザ・セル
めぐりあう時間たち
ロック・ユー★
都市を歩くように★
The Last of Us2~6
ドント・ウォーリー・ダーリン
ザリガニの鳴くところ
ハムナプトラ/失われた砂漠の都★
ハムナプトラ2/黄金のピラミッド★
ビバリウム
クライモリ(2021)
クライモリ(2003)
双生児★
MONDAYS/このタイムループ、上司に気づかせないと終わらない
我々の父親
アフター・ヤン
エレファント・ウィスパラー
最後まで行く
PLAN75
ザ・ロスト・シティ

★は再鑑賞

 

〈映画館〉
METライブビューイング〈めぐりあう時間たち
別れる決心

 

〈本〉
河出書房新社編集『7.8元首相銃撃事件 何が終わり、何が始まったのか』
見田宗介社会学入門』
布瀬英利『現代アートはすごい❗』
マイケル・カニンガムめぐりあう時間たち』★
小川公代『ケアする惑星』

★は再読

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2月前半は何といってもケヴィン・プッツのオペラ『めぐりあう時間たち』に心奪われた。歌うのも難しいだろうけど、楽譜見たいなあ。特にコーラスが入ったときのハーモニーが素晴らしくて、現代オペラなのだけど不協和音やライヒやグラスのような反復より、やはりどこかにメロウさを残す音楽が好みだったし嬉しかった。ルネ・フレミングつながりでプレヴィンの『欲望という名の電車』の大好きな名曲I want a magic!を思い出す。配信はそのせいで前半はぼんやり旧作ばかり観ていたのだけど、『めぐりあう時間たち』熱が落ち着いたころから見逃していた作品を。

映画館の新作はもう『別れる決心』がたいへん面白かったので今はもう一回観たいなあの気持ちでいっぱいです。たまたまなんだけど、擬態しサバイブする女として『ザリガニの鳴くところ』『クライモリ(2021)』、そして『別れる決心』を今月観られたのは大きかった気がする(クライモリってもしかして暗い森をそのままカタカナにしてる…?っていう間抜けな気づきはおいといて)。

『ザリガニの鳴くところ』の魅力は湿地の豊かなイメージ、そこからの英知。『別れる決心』は言語とコミュニケーションのズレ。どちらもサバイブする女が利用し、自分で幕引きを決める話なのでこのあたりのお話誰かとしたさある。『ザリガニの鳴くところ』は原作の良さを味わいたいので読みたい。

まったくトーンは違うけれど『アフター・ヤン』も印象的でした。

1月の記録

〈配信〉★は再鑑賞

NOPE/ノープ★
さよなら、私のロンリー
脱出おひとり様アイランド
西部戦線異状なし
ごん
シリアスマン
我輩は猫である
ペプシよ、戦闘機はどこに?
マイブロークンマリコ
オキュラス
ヒルズハブアイズ
レフト 恐怖物件
ホワイト・ノイズ
スターウォーズ三部作
チルダ・ザ・ミュージカル
キングスマン
キングスマンゴールデンサークル★
ザ・メニュー
ソイレント・グリーン
ほの蒼き瞳
プレッシャー・クッカー
イエロー・ジャケッツ
ポゼッサー
マイビューティフルガーデン
ソムニア
エスケーピング・マッドハウス

The Last of Us ep1

ドラゴンボール超スーパーヒーロー
一人っ子の国★
クルーレス

進撃の巨人ミュージカル

 

〈映画館〉

NTLレオポルトシュタット

THE FIRST SLAM DUNK

ヒトラーのための虐殺会議

 

〈読書〉

池田理代子オルフェウスの窓』全巻★

藤野可織『青木きららのちょっとした冒険』

見田宗介『まなざしの地獄』

 

なんとなく今年は記録をつけようと思って玉石混淆でもメモをした。

『NOPE/ノープ』はなんと配信購入して4回も観ているけど、何回観ても面白い。

配信では『さよなら、私のロンリー』『西部戦線異状なし』あたりが特に良かった。

ディズニープラスはスターウォーズシリーズなどの復習して、そのあとはお休みしている。

最近Netflixのラインナップがどうもぴんとこず、再生してもリアリティーショーばかり流している。U-NEXTで観たドラマの『イエロージャケッツ』は桐生夏生『OUT』みたいな展開になってきて更新が楽しみ。

後半は友達が滞在していたので、家で映画を観るよりおしゃべりに興じていた。

 

 

 

 

 

最近のこと

しれっと更新してみる。

twitterを辞めてみた。辞めてみたというよりお休みしている。のつもりだけど、思ったよりもずっと精神衛生に良いのでこのままストップするかもしれない。アカウントを消すつもりはない。

 

1.

いちばんはこれなんだけど、この3か月いろんなことが重なり仕事が鬼のように忙しい。倒れそうになった日もあって、SNSどころじゃないのが正直なところだった。同時並行で案件を3つくらい抱えていたんだけど、仕事の愚痴をともすると全部書き散らしてしまいそうだし、結局ひとの悪口になってしまうのでそれはそれで後味がよくないので予防のために。

 

2.

情報の消費速度についていけなさを感じたから。この一か月半ばかり恐ろしいニュースばかりで正直疲れてしまった。特にtwitterは強い言葉の応酬が多いし、バズるのもそういうツイートばかりで見ていると疲弊する。すべてに反応しなきゃいけない気持ちになってしまうのもよろしくない。

 

3.

全然知らない他人に期待されたり期待したり、憶測でなにかを言ったり言われたりするのも疲れた(SNSはそんなもんだというのにね)。フォロワーが多いのでこれは功罪だと思う。良いこともたくさんあったし楽しかった部分も多い。だけどもう、自分の考えや意図を多くの人にいちいち公開したり説明する意味を感じなくなってしまった。

 

 

というわけで最近はtwitterそのものを休んでいる。instagramは毎日更新している。

生活と健康と仕事を大切にして秋を迎えたい。

 

 

 

ジミニー・クリケットの声を聞く

日記。

某映画の批評をしていたアカウントが消えてしまった。曰く「twitterはもうオタクが楽しく会話できる場所ではなくなった」とのことで、それはそうなっているのかもしれないなあと厭世的な気持ちになってしまった。

しかしそういったネット上でのトラブルやいわゆる「叩き行為」に遭遇するたびに暇な人もいるものだと思うものの、彼らは暇だから嫌がらせをしたり粘着するわけではない。遊び半分、野次馬根性、物見遊山的に参加できて自分はその他大勢だから責任はないし、気軽で楽しい遊びだからやるのだ。まじめに相手をするにはコストが高い。残念だけどその気持ちはとてもよくわかる。

楽しんでいる人に道徳的にどうのと説いてもしょうがない部分はある。反省するのは法的手段を取られて特定されたり賠償金の支払いを求められた場合くらいで、それだってポーズに過ぎないだろうし本当に本当に反省したのか確認する方法などない。錘をつけて水に沈めて浮いてきた者だけが無罪とするのと一緒なくらい馬鹿げている。だから賠償金だの法的処罰てのがある。

でも大体そうなったときには取り返しがつかなかったり、何かが損なわれてしまっている(もちろんそこからやり直すことはできる)。加害性を無自覚に持つ人間は悲しいくらいごまんといるし、自分もその一人だ。どうコントロールするのかが時に矜持であったり、時に倫理観であったり、あるいはあまり褒められたものではないが単純に戦略的保身であったりする。

 

私はめちゃくちゃにむかついて架空の敵の泣かせて四肢を引きちぎって苦悶の声をあげさせて許しを請わせたい気持ちになったときは、胸にジミニー・クリケットを一匹飼っていることを思い出すようにしている。ジミニーはけして大きい声では鳴かない。だから聞こえるように自分の心の状態をよくふだんから観察しておくことが必要だ。それからジミニーに良いものを食べさせて太らせてちょっとでかめの声で鳴けるようにしておくのも大事かもしれない。警笛レベルで鳴いてくれるようになる。ときどき誤作動を起こすかもしれないが、鼻が長くなって花が咲いたりそれで人を刺したり、あるいはほんとうに敵と思った人間の四肢をひきちぎるよりましだ。

ジミニー・クリケットで思い出したが、私は太宰治の小説だと『きりぎりす』がいちばん好きでこれで学生時代に感想文を書いたことがある。

背骨の小さい声を聞き漏らさないように生きたいとそれらしくかっこつけて書いてから20年近く経ったけれど、ほんとうに、なかなか難しい。

 

いい話です、読んでね。

www.aozora.gr.jp

 



 

 

チロンヌㇷ°カムイ イオマンテ感想

 

キタキツネをチロンヌ(プ)というのは子供のころに知った気がする。しかしイオマンテはそれこそ金カムで読んだとおり、神の国へ送る儀式なので正直観るのに恐れをなしていた。なんたってクマじゃなくてキタキツネなのだから、サイズ感も猫や犬に近い。またこのキタキツネのツネ吉が愛くるしいのだから、この映画が86年に記録された映像をもとに作られていてとうの昔に終わったこととはいえ辛くなる気持ちは否めない。

映画が始まって最初がいちばん気を張っていて、美幌の美しい自然が映っただけでなんだかもう涙が出そうだった。自分=和人の、しかも現代の感覚とはまったく違うものを今から見るのだと身構えていたのに、あっけないくらいその感覚は消えて、86年に生きるアイヌの人々は現代に生きる私たちと違いがないように見えた。86年は私が2歳のころで、どうも懐かしさを感じる。

 

あらすじなどはHPや紹介ページで読めると思うのでここには自分の雑感だけ書き記したい。全部ネタバレというか場面の状況などくわしく書いているので注意。

 

 

 

 

この映画は全編がキタキツネの視点で語られる。いわば神になったキツネの視点からすべての出来事を追体験するような感覚になる。

一つ一つの祈りの言葉を慎重につむいでいく日川善次郎エカシ。独特の一定のリズムがアイヌ語の祈りにはあって、これはどの人が祝詞をささげても同じようになるんだろうかと疑問に思った。付点がついているような、三拍子になりそうでならない流れ。

75年ぶりに開催されるイオマンテアイヌの人々もよく知らない儀式という。日川エカシが自分以外にもこの儀式のやり方を知ってる人はなかなかいない、と説明していた。そもそも儀式が執り行われなかったから知る人がいないんだろうから、どういった理由で開催されていなかったのか、このあたりは抑圧の歴史などが隠れているのではないかと気になるところだ。調べたい。

ツネキチは日川善次郎エカシの庭でまるで犬のように飼われている。妻のキヨさんもツネキチ!と呼んで可愛がっている。このあたりはやがてくる儀式を思うとじんわりくるものがあった。儀式なのだからと割り切って行うのだろうなと予測していたのだけれど、企画の堤さんの質問に対して「わが子のように育ててきたのだから悲しい」と日川エカシが答える。悲しみを乗り越えて、新しいカムイに生まれ変わらせるのだからと。

 

この、悲しさや罪悪感(尾形をどうしても思い出すね)というのがキーワードな気がする。私たちは普段肉や野菜やありとあらゆる生き物の命をもらうのに罪悪感と向き合うことはほとんどない。透明化されている命の受け渡し。

キタキツネを殺すなんてひどい、むごい、という感覚はどうしても湧いてくる。でもそれがアイヌの人々にない感覚なのかというとそうではない。漁や採取をして食べ物を自然から受け取ってきたアイヌの人々は感謝や供物をささげることでこの感覚にずっと向き合ってきたのだろうなと思う。悲しい、つらい、苦しい、その感覚は神の国に送り返してまた戻ってきてねと祈ることと同時にそこにある。

それを思うと映画の冒頭であんなにキツネの死を恐れてびびっていたのに、いよいよ儀式のときになると心が穏やかなのだ。自分の中にいる動物愛護団体がキツネが喜んでいるわけはないでしょう、ほらあんなにおびえて…と突っ込みをいれつつも、自分があの場にいたなら受け入れるだろうというのもわかる。

映っていなかっただけかもしれないが、ツネキチが屠られたあとに泣いている人間は映らない。もちろん日川エカシも泣かないし、キヨさんも泣かない。一人涙をぬぐっているように見える女性がいたが、キツネに対しての涙なのかはわからない。

晴れやかに楽し気に、しかし気迫と真剣みを持って歌と踊りが繰り広げられる。

 

***

 

他に印象に残った場面がいくつか。

妻キヨさんが若いころの日川エカシが酒飲みで、いわゆるワンオペ育児で苦労しまくって子どもと一緒に死のうとした、と涙をぬぐうシーンがあった。あそこだけ奇妙に全体から少し浮いていて、もちろんそれは日川エカシを妻の視点から語るという一場面だったのだけど、日川エカシの人柄は特に語られなかったのもある。儀礼の場では男が前に出て祝詞を唱えるもので女は別の役割があると徹底して描かれている映画で、儀礼から離れた一人のアイヌの女性のつらさや苦しみに寄り添う場面だったからなのかもしれない。

 

それから日川エカシの孫の男子二人が登場するのだけど、中学三年生の隆三少年を見てどうしても有古イポ(プ)テのセリフを思い出した。

まだあどけない小学六年生の正さんが「こういう儀式続けてやってみたい?」と聞かれて「あんまりやりたくない」と声変わり前のはにかんだ小さな声で答えるのに対し、隆三は立て続けに問われても額に手を当てて「別に」と答えるだけである。86年、14~15歳、おしゃれもしたいのかチェーンらしきものが学生服についているのも感慨深くて、ちょっとツッパリが入っているようなきりりとした男の子。それでいて家にいるシーンでは驚くほど陰鬱で静かな眼差しをしている。

学校での授業シーンも一瞬あって、そこでは隆三さんが明るく笑顔を見せているのが心に刻まれた。「学校を卒業したらここを離れたいのですが、それは家族の前では口に出せません」とナレーションが入る。

儀式の中では、「あんまりやりたくない」「別に」と答える二人ともこれまた見事に踊るのだ。好むと好まざるとにかかわらず、もしかしたらそれを意識するずっと前、小さいころから仕込まれていたんだろうなとうかがえる。でもここで「やりたくない」「別に」と答える二人の気持ちを心から理解することはできないのに「もったいないね、こんなに素晴らしい伝統文化なのに」と私が画面に向かって思わず言ってしまいそうになるのはなんと暴力的なんだろうかと考えた。

 

 

***

 

かくしてキタキツネは屠られて神の国へ送られる。

どの時点でキツネが死んでいたのかは判然としない。花矢で射られた直後からぐったりしていたが、矢のさきは丸くなっていたように思う。レクッヌンパニと呼ばれる締め木で首の骨を折られたのかもしれない。皮をはがれ、首を切断されてその首が飾り立てらる。

首を囲んで皆が再び祝詞をあげ、歌をうたい、踊りを舞う。たくさんのお土産を持ってツネキチは神の国へ行き、そうしてまた人間の国に行きたいと神様に告げるのだという。86年の映像の最後に2021年の美幌の風景が映る。儀式の行われたチセは消え去り、日川エカシは亡くなり、娘のキク子さんから孫二人の消息が告げられる。もうイオマンテが行われることはないのかもしれない。

 

 

金カムを読み続けて最終話やインタビューを読むにつけて、こういった文化を伝える素晴らしい漫画なのにも関わらずどうしてこうなってしまったのかと苦々しい思いも現在進行形で抱えているけれど、漫画作品や野田先生だけに背負わせるのも酷な話だ(当然、は?と思ったことは批判する)。漫画の受け入れられ方は良くも悪くも私たちの社会の写し鏡でもあるし、作者と読者の関係だけではなく色んな要素が絡み合って話題作になっている。

批判され、賞賛され、色んな人の視点で語られて、それでゴールデンカムイという漫画が数十年後にどういう立ち位置の作品として、どういう手つきで扱われるのかが楽しみでもある。とにもかくにもエポックメイキングな作品の一つであることは間違いないと考えているし、面白さや良いところにたくさん救われて楽しませてもらったのだから。

 

「チロンヌㇷ°カムイ イオマンテ」は金カムを読んでいなかったら観ることはなかっただろう。単なる貴重な映像というだけではなくて、アイヌ文化の精神性の一部に触れることができる稀有な体験になった。

 

誰がために鐘は鳴る

勇尾で同人を描き続けたオタクによるゴールデンカムイの310話についてネタバレしている記事です。

ご注意ください。

 

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尾形百之助が亡くなった。

あまりにも予想を超えた壮絶な最期に私はけっこう混乱していた。

尾形は金カムの中でも主人公をしのぐかしのがないかの勢いでたいへん人気があるので本誌直後のTLはうめき声と混乱と涙にあふれていた。

私はどちらかというと、その尾形の異母弟である花沢勇作のオタクなので尾形くんが亡くなった悲しみよりも四年間二人の関係を模索し続けた行為にひとつの回答が得られたようで、不思議な充足感もありつつ腑に落ちないものもあった。

 

2019年12月に花沢勇作さんへの異様な執着と勝手な想いをつづったのがこちらの記事なので、参考にお読みください。

 

fujio0311.hatenablog.com

 

結果的にいえば、多少の展開(「ウウウ勇作殿…」と『花沢勇作童貞防衛作戦』)はあったものの、私の人物解釈像に2019年からそれほど齟齬はない。なので花沢勇作さんについてわあわあ言っててよかったなあと思ったりもした。

 

 

■ 罪悪感は弟の姿をして

 

尾形百之助は罪悪感の象徴として花沢勇作の姿を思い描いている。回想に現れる花沢勇作は常に目元が見えない。自問自答する中で尾形の内なる声は「それ(罪悪感)と目を合わさないようにしてきた」「向き合おうとしてこなかった」といい、「勇作だけが俺を愛してくれたから」と続ける。悪いことをするやつは見られるのが怖い、の伏線がここで回収された。

そして明かされた勇作さんの目元。尾形と少しも似ていない方が残酷で物語的には面白いだろうなと思っていたので、予想通りではあったがあまりの瑕疵のない美しさに傷つくような思いだった。ほとんど弥勒菩薩のようである。尾形にとっての神様のような存在だからわかるのだけれど。

 

衝撃の「勇作だけが俺を愛してくれたから」。

おまえ…おまえ、尾形…愛情を素直に受け取っていたのか……とオタクはわなわなしてしまった。ここは、尾形のオタクというより勇尾の、そして花沢勇作のオタクとしてはたいへんに嬉しい一言だった。

165話公開当時、尾形ファンによる「花沢勇作は傲慢で独善的な距離の詰め方をして尾形を追い詰め傷つけた、遠慮や配慮がない、だから花沢勇作は最低最悪で嫌いだ」という評価が散見された。たぶんいまだに勇作さんが憎くて嫌いだ、とか尾形の方が正しい、といった意見はある。好き嫌いは自由だ。それに正直尾形ファンの憤りがまったくの的外れとは思わない。

花沢勇作が兄弟というものに深いあこがれを持ち、軍の規律を乱すような行動を積極的に取っていたのは間違いはない。また、それによって尾形が面食らっていたのは本人の弁であるから、いろんな意味で想定外の行動を平気でとるのが花沢勇作という人物なのだろう。

ただ同時に、尾形の内心を勝手に忖度して「異母兄弟で上官である自分が話しかけたら迷惑では」などと勇作が決めつける方が私はよほど傲慢で嫌な奴だと思う。「私は話しかけたいと思っているんですがね、兄様は迷惑に思うでしょうから…ほら立場も違いますし、私は仲良くしたいんですけども、ね、ふつうの人ならこの感覚わかるでしょう?」なんていう考え方をする花沢勇作は嫌だ…。

これはけっこう悪意がある書き方をしています。極端な例ですみません。でも私が変なだけでこういう考え方をする方がふつうなのかもしれない。

 

 

アプローチし続けた結果、165話で「兵営では避けられてるような気がしていましたので」と花沢勇作自身が語っている通り、尾形は何らかの理由で避けていたのだろう。これも人間同士のやり取りとしてはごく当然の展開である。

この何らかの理由が、「ほんとうに迷惑だった」「迷惑ではないが本人にもよくわからない理由で避けていた」「勇作の愛情が怖くなった」「鶴見と計画していた遊郭の策略のためにわざと身を隠していた」「ただのタイミングだった」のか、はたまた別の思惑があったのかは明かされていないのでわからないのだ。

戸惑いを覚えながらも、尾形は勇作からの愛情を認識していたことだけが結果としてわかる。

 

 

■ 人間・花沢勇作

 

兄の自死に手を添え、悪霊のように尾形を抱え高笑いをしながら列車から闇へ消えていった罪悪感が勇作さんの姿をしているのは花沢勇作ファンとしてはつらいものがあったが、あくまで尾形の中の罪悪感であり勇作さん自身ではないと納得している。

罪悪感が尾形の自殺をほう助し、罪悪感に包まれて尾形は死んでいったのだ。最期まで罪悪感を拒否し続けていたのは尾形らしいな、とも思えるようになった。

 

ここにきてようやく気付いたことがある。あれこれオタクが深読みしたり、次の展開を予想しても野田先生は「描いたものがすべて」の作家だということだ。よく考えたらそれはそうだろう、週刊連載が前提の物語で叙述トリックなどやっていたら誰もついてこれない。なので幸次郎のセリフも、尾形のセリフも、そのままシンプルに受け取るべきなんだろう…。

『花沢勇作童貞防衛作戦』はタイトルに名前が入っているにも関わらず、完全に勇作さんは事件の蚊帳の外だ。もとはといえば両親のそれぞれの思惑がぶつかって起きた替え玉事件だが、金子花枝子や杉元や菊田、鶴見はては尾形まで巻き込んでいるにも関わらず本人は最後まで何も知らされていない。こんなひどいことがあるだろうか。

本人の自由意思というにはあまりにも選択肢のない人生だが、その中で旗手に任命されたら兵たちのよすがとなって身をささげるという勇作…。私はぜーんぜんこれを美談にしたくない。というか美談にしてしまうと特攻隊の肯定と何も変わらないのである。

かといってこれをもって勇作には意思がない、ただの父親のきれいなお人形だといわれるのも何かが違う気がする。また杉元のように選択肢を与えるといいつつ、エビフライじゃねえのかよ!と殴り掛かるのも極端な話だ。

 

花沢勇作は当時の軍国主義を信じて信じて、信じぬいて死んでいった若者たちを体現しているのかもしれない。いっそのこと杉元につかみかかられたときに信念の揺らぎを見せてくれたらよかったのですが…道理のない暴力におびえるだけでこのあたりもかなり温厚で穏やかな性格なのが垣間見られて私は悲しい。

 

 

花沢勇作のオタクとしては、これまでずっと偶像として描かれてきたことを踏まえてもっと花沢勇作の人間らしい姿を…と求めてしまっている。というか今の今もそう考えている。

だけれども、野田先生が書いたものがすべてだとすると、やはり花沢勇作の偶像ではない究極に人間らしい魂の底からの言葉はやはり165話のあのシーンであると考えなおした。

 

「兄様はけしてそんな人じゃない。いつかわかる日が来ます。人を殺して罪悪感を微塵も感じない人間がこの世にいて良いはずがないのです」

 

このセリフが正しい、正しくないの話でいえば前半は尾形に関しては当たっていたということになる。

尾形は勇作を殺して罪悪感を感じていたし、それがわかる日が自分の死ぬ日だった。

同時に後半は間違っている。罪悪感を感じない人間はいる。宇佐美しかり、囚人たちしかり。「この世にいて良いはずがないのです」も人の善性を信じる勇作はそう思いたいのだろうな…という感じだ。

面白いのは尾形がしっかりここにひっかかりを覚えてしまった点だ。

 

 

■ 「欠けた人間」理論

 

さて、罪悪感の話でいうと尾形は幼少期に母親も殺めているのだから、母親への罪悪感も持ち合わせていそうなものだ。しかしいうに事欠いて「お父っつぁまに愛があるか知りたくておっ母を殺したのに意味なかったってこと?」と返している。

母親に自分を見て欲しかったであろうことは幼少期の描写で「おっ母、みて…」と母親の顔に手を差し伸べている姿もあってよくわかる。尾形が母親の愛を求めていたのは間違いない。

このあたりの尾形の論理に乗っかってしまうと頭がぐるぐるしてくる。

 

 

「欠けた人間」という言い回しは103話で初めて登場する。

 

愛情のない親が交わって出来る子供は 何かが欠けた人間に育つのですかね?

 

 

これは漠然と尾形が幼少期から抱き続けてきた母親から愛されない不安やさみしさや憤りが自分に「何かが欠けている」ことを原因と考えた論理なのだろう。これはほんとうに悲しくてつらい結論である。子どもは自分に原因があると考えてしまうものだ。

 

そして兵営で出会った花沢勇作が兄と尾形を慕い、愛情を向けてきたことが理論を補強する(と尾形は考える)。愛されて生まれた子供だから、誰にも愛されておらず、複雑な関係にもかかわらず屈託なく自分にも愛情を向けてくるのだと。

尾形は勇作さんからのアプローチを避けてはいたが、本編中で一度も疎ましがったり嫌ったり怒りを見せたりはしていない。

尾形は愛されるにふさわしく、愛を受け取れる人間なのである。現に花沢勇作は尾形を愛していた。異様な願い事をする兄のいびつさや孤独に気づき、思わず抱きしめて涙を流さずにいられないくらいに。

 

しかし、瀕死の幸次郎との対話で、図らずも幸次郎が欠けた理論を肯定してしまう。尾形の笑みは「自分は正しかった、間違っていなかった」ということなのだろう。

この尾形の自信が流氷問答後あたりから揺らぎ始めることになる。幻覚の出現は尾形が高熱で朦朧として心身が弱っているときだったが、流氷問答後からは様子が変わってくる。それは狙撃手の宝である視力を奪われたことによる精神的な揺らぎなのか、怪我からくる副作用なのかもしれない。抑えつけていたものが抑えられなくなってきた、フェーズが変わったとみてもいい。

 

ひとつ残念だなと思うのは、「欠けた」理論が間違っていようが間違っていなかろうが、自分でそう認識している感覚への寄り添いが無くなってしまった点である。金カムには明らかに社会倫理とかけ離れた感覚の魅力的な囚人たちが数多く登場し、彼らのほとんどは作中で亡くなっているものの命のきらめきを見せてくれている。

尾形の自分が「欠けて」いる人間では?という疑問は自己理解の契機と考えるとけして無駄な問いではない。「欠けて」いてもその生は肯定されてほしかったと作品のいちファンとしては思わずにいられない。

特に尾形のように家庭環境が複雑で孤独なキャラクターへシンパシーを感じているファンも数多くいるのが見受けられるため、美学としてのキャラクターの自死は理解できるがやはりショッキングではあった。これも本人が罪悪感から逃れるために行ったことでその死は副次的な結果であり、自死とはとらえていないという考え方もあるがいずれにせよ思考停止を選択したと考えるとなかなかにつらい。

 

 

 

■ 皮膚で感じる愛の温度

 

罪悪感は弟の姿をしている、と同時に罪悪感を抱くのは尾形が勇作に何かしらの感情を抱いているからではとも考えられる。

勇尾のオタクなので、もしかしたらそれは愛だったのでは…?と考えたいところだ。

もちろん勇作からの愛を認知していたものの尾形が勇作を愛していたとは明言していないのが、これはただの願望である。しかし罪悪感を見ることを否定しつつ「後悔などしとらん!」と叫ぶ尾形の姿は痛ましく、セリフも行動もすべて反転して見ることもできるかもしれない。

 

 

閑話休題

最近、自分は五感を使って生きることができているだろうかと考えている。物事をよく見て、聴き、味わい、触れているか。頭でっかちに考えたり言葉を優先させたりしがちな資質なもので、余計にそう思うのかもしれない。

身体的感覚、皮膚感覚。

 

今回の尾形百之助の凄まじい自己との対話、彼の人生の中で幾度となく繰り返されたであろう問いと仮説。

 

 

 

2018年に描いた同人誌『ノスタルジア』の感想をくれた友人とやり取りしたことの上書きだが、尾形自身が言語化できず知覚すらしていないようなおぼろげな感情、相手のことを理解しようとも知ろうともしておらずどこか未熟な子どもの精神の尾形がそれでも隣に弟がいたことを断片的に覚えていて、それが「愛してくれた」の一言に集約されているように思う。

 

 

■ そは汝がため鳴るなれば

 

すっかり勇尾のことがわからなくなってしまった。描きたいものを好き放題描きまくったので、描けなくなってしまったともいえる。もうずいぶん同人誌も出したし、満足してしまったのもあるかもしれない。310話を起爆剤として何かを描くにはあまりにも物寂しい。

解釈違いなどではなく、ほぼほぼ二人の関係をこねくり回して四年も考えていた結果、当たっていたせいかもしれない。しかしあまりにも平行線で答えが出ないカップリングなのを思い知らされた感覚でもある。

 

これはとても誠実でもある。

花沢勇作は二百三高地で殺されたからだ。

死んだ人間はもう答えようがない。殺した尾形にも生きている勇作は答えを返してくれることはない。花沢勇作が何を思って兄に近づき、兄を慕って距離を詰め、愛情を注いでいたのか、また殺されてどう思うのかはわからない。

 

幽霊は生きている人間だけが見る。

 

 

なんぴとも孤島ではなく、かすかなつながりはあり、尾形はずっと鐘の音を聞いていたのだろう。しかし最期まで尾形は孤島であろうとした。見事な尾形劇場であったことよなあ、と思うさみしさとかすかな過去にあった弟からの愛という光を味わうことができた310話でした。

おしまい。