2017.3.11 誕生日のこと

 33歳になる。だからなんだという感じでもあるんだけど、これまで平穏無事に生きてこられたのでめでたいし、ありがたいことだ。去年の4月に私は転勤をして、生まれてからずっと暮らしてきた宮城県を離れた。離れるまではずっと東京で働くのが心配で、でも同時にやっていけるだろうと思っていた。住むところが違うけれどもやることは宮城とそう変わらない。それより、32歳にして初めて一人暮らしをすることの方が少し恥ずかしくてやっていけるのかなと心配だったけれど、これもまったくの杞憂で元来私は一人でいてもハッピーな人間なのだった。

 さて、3.11と呼ばれるようになった私の誕生日よ。どうしたってこの日はそういう雰囲気になる。そういう雰囲気というと分かりづらいと思うけど、マスコミに流れる雰囲気がそういうやつである。だから一年後なんて自粛ムードが凄かったし、私はあのときむしゃくしゃしてケーキを食べた記憶がある。

 ということで東日本大震災のことを少し書きます。読みたくない人は読まないでください。

 

 

 6年前のあの日、今だから言うんだけど、私は宮城県女川町にいた。女の川と書いておながわと読む。漁港があって、人口はそんなに多くなくて、仙台から車で一時間半くらいな距離にある。お年寄りが多くて、ヤンキーな高校生がいる。時々うっすら魚の匂いがする。ぐねぐねした一本道の道路を海を見ながらひたすら走る。お天気がいい日の海はきらきらしていてすごく景色がよいけれど、雪の日の道路は死ぬんじゃないかと思うくらい怖い。ちなみにすごく災難な人もいるものだと思うのだけど、3.11の朝にその道路で車が横転していて中に運転手さんがひっくり返っているのが見えた。血も出ていないしすでに警察も呼んでいそうな雰囲気だったのでそのまま通り過ぎてしまったのだけど、あの人が無事でいるといい。

 

 仕事でそこに通っていたのだけど、私は午後に会計の仕事などをしていて、帰りたいなと思っていた。だって27歳の誕生日だ。仕事もそれが終わってしまえばすることがない日だった。お休みを取って帰ろうとしていた同僚もいて、いいなあと羨んだ。会計の仕事がひと段落ついたのでお弁当を食べた。食べ終わった頃に地震が来た。棚が倒れてファイルがぜんぶ散らばって、地震はよく経験していたけれどもこいつは尋常じゃないと思った。

 女の同僚がキャーと高い声で叫んでいた。よくそんな声が出るなあと何か感心しながら机の下にもぐって目をかっぴらいて黙りこくっていた。みんなで逃げようといって高台に逃げた。もともと職場は山を切り開いた高台にあったけれどもっと上に逃げた。サイレンが鳴って、津波警報が出た。

私は津波を知らなかった。防災無線の女の人が高台に逃げてくださいと指示していた。そのうち男の人の声に代わった。必死で叫び続けていて、すごくせっぱつまっていて、しばらくしてぶつりと途切れた。空は灰色で不穏な感じで、でも静かだった。同じ場所に逃げてきた人たちは不安そうに身を縮めていた。凍えるように寒くて、おまけに雪までちらついていた。この冬空の下、町の人たちはどうしているのか、逃げているのか、わからなかった。そのうちにゴオッ…というような音が聞こえた。近くで聞いたらすごい音だったろうと思う。ここからおよそ30m下の道路を津波が通り抜けている。同僚のうちの誰かが様子を見に行った気がするけれど、私は行く気になれなかった。だから津波も見ていないし通り過ぎていくところも、物や人が流れていくところも見ていない。

 夜は手足が氷みたいに冷たくて感覚がなくなり、凍え死ぬんじゃないかと思うくらいつらかった。余震が何度もあって、夜中に男の人たちが担架でおぼれた人を助けに行った。やがてがれきの下から助け出された中高年の二人の女性が連れてこられて、私や同僚は濡れた服を脱がせて毛布を巻き付けた。うち一人はしゃべることができない人だった。知らない人を裸にして、手足をごしごしこすったりして、なんだろうこれは、一体何が起きているんだろうと思いながら手伝った。

 12日の朝、下の道路に降りると電線に布団がひっかかってずっしりと重そうに垂れ下がっていた。海辺の町の方向を見やると何もなくなっていた。たくさんひしめくようにしてあった住宅がない。ないと言っても伝わらないんだけど、両脇にひしめきあっていた家が無くなったので、狭かった道路がうそみたいにがらんとして向こうの海まで見えそうだった。あたり一面ががれきとヘドロでいっぱいだった。嫌な臭いがした。それ以上海の方には行けなくて、ほんの数メートル進む気持ちになれたのは次の日だった。三階だか四階の建物の上に車が乗っかっていた。知っていることでここに書けることもそのくらいだ。被害についてはたくさん記述があると思う。いまだに行方不明者はたくさんいる。仮設住宅に住んでいる方もたくさんいる。被害の証言のページからすると町の55.9%の人口が亡くなったという。半分以上である。海が見えない位置に住んでいた人たちの被害が大きかった。

http://memory.ever.jp/tsunami/shogen_onagawa.html

 三日間職場から出ることは何となく禁止されて、禁止されたというよりも道路がろくに使えないからなのだった。ただ、自宅がある方面からこちらまで自転車で家族を探しにきた方や業者の人がいて、私の住んでいるところも被害が大きいと聞いた。その間は両親のことも家のことも考えることをやめようと思って考えなかった。とにかく今は生き延びる。余震も多かったし、また津波が来るかもしれないので自分がどうなるかわからない。何が何でも生きると思った。考えても不安になっても仕方なかった。

 いつも使っている道は水没したり流されてきたがれきで埋まっているので、三日後に車で遠回りをしながら、家よりも先にまずは役所で両親が生きているか確認しようと思った。死んでいることも覚悟せざるを得なかった。自分の感情というものをうまく死なせようと思って何も感じない状態になっているのを確認しながら、安否確認の列に並んだ。できるだけショックは受けないようにしたかった。幸い両親の名前は遺体安置所のリストに載っていなかった。

 ここまでが私の中のピークなんだと思う。結論から言うと、家族は全員無事で、海岸から5kmの家も庭先まで水が来たけれど床下浸水にもならなかったのでなんともなかった。仙台まで行ったら断水はしていたけれど街がきれいで、ビルに電気がついていて、びっくりした。向こうの状況とまったく違うのに意味もなく腹が立った。

 仕事の関係で遺体安置所にも行ったし、悲惨な話もたくさん聞かされた。出張していた同僚が逃げる途中、一人津波に飲まれて亡くなった。奥さん子どもを亡くした同僚の傷ついた姿も見た。もとの生活に戻るまでに病気もしたし、水も電気もなくてしんどい思いもしたけれど、4月には少し人間らしい生活が送れるようになった。

 インターネットが復旧して、心配をたくさんかけた友達に安否確認をしていただいて、それから私がやったのは馬鹿みたいに高いサンダルを注文したことだった。なにか日常に戻るきっかけが欲しかった。本や映画を楽しむ気になれたのはそのあとのことだった。

 

 震災を語るのは難しい。これは、ただの自分の記憶の反芻に過ぎない。私は被災者だけれど、家族や恋人や友人やペットや家を失ってはいない。溺れて死にかけたりもしていない。失業してもいない。心の病気にもならなかったし、大病も患わなかった。福島の人たちのような思いもしていない。たいへんだ、たいへんだ、と語る人たちのことも疎ましく思ったりしたし、テレビで絆うんぬんという言葉が流れると意味もなく無性に腹が立った。

 今でも覚えているのは小学校や病院をまわったときに、大勢の人が家族へのメッセージを模造紙や記名帳に書き連ねていたこと。「おかあさんはぶじです」「△△ちゃん、どこにいますか」「40代男性で背は約170cmで、茶色いジャンパーを着ています」「私は〇〇にいます、連絡をください」必死のことばだった。絆のようなものはああいうことなのかなと思う。私のことも一時期そういう言葉で探してくれた友人がいたのだ。

 学んだものがたくさんあるけれど、あまり上手に語れない。これを学びと言っていいのかもわからない。私のこの文章を読んで傷つく人もいるかもしれない。一年に一度は絶対にこうして思い出すけれど、思い出すたびに自分に都合のよいように矮小化してぎゅっとにぎりしめてシンプルに、コンパクトにしようとしている気がする。その方がひとに伝えやすいから。それがいいことなのかわるいことなのかもわからない。自然なことのような気もする。

 震災のことで万人に言えるのは、とにもかくにも自分第一で身の安全を確保してほしいということと、一に自分、二に自分、三に自分のあとで気持ちや体力にゆとりが出てきたら他者を助けてほしいということ。最悪のケースを想定して動くこと。傷ついたらめちゃくちゃに泣いていいし怒っていいこと。 

 3.11が来るたびに同じことを繰り返し考えると思う。40になっても50になっても考える。これは日記みたいなものだし、役に立つ教訓もないし、泣かせる話もない。ただただ、誕生日が来るたびに指さし確認をする。生きているから大丈夫。